小説

『虫愛ずる人々』山泉愼太郎(『虫めづる姫君』)

 パンの隙間からは、ぎゅうぎゅうに押し込められた毒虫達が見えた。幾個ものぎょろついた目がじっと私を見つめている。女はあんぐりと口を開け、虫ごとサンドウィッチを平らげた。木鉢で粘着質なものをすり潰すような音が車内に響いた。女は頬を膨らませ、喉仏を上下させ、また一切れ、二切れと口へと運ぶ。朝食を抜いていた私にとって、まさに拷問であった。
 鼻をつまむことはできないので、せめて視覚と聴覚を麻痺させよう。私の指はポケットの中で、音楽再生機器とぐるぐる巻きにされたイヤホンコードを握った。腕一つ動かすのも一苦労な満員電車では、両の手がイヤホンコードを解くことはできない。私の右手はイヤホンコードを絡みつかせて、ポケットから注意深く這い出た。そのまま腹から胸まで撫でるように一気に上がり、耳までイヤホンを届けると、同じルートを通ってポケットまで素早く戻った。コードには固結びの「ダマ」が二つ見えたが、構わず私はプレーヤーの再生ボタンを押した。
 音楽は朝の喧騒を一時忘れさせてくれる。体の透き通るような感覚が満ち、私は流れゆく家々と緑のたわむれを楽しみつつ、電車に詰め込まれた人々を思う。彼らはときに虫を飼い、ときに虫への無関係を装い、見ず知らずの人間と共有する時間が過ぎていくのを、石膏像のごとく待ち続ける。
『虫はいつから蔓延したか、追い払うには如何とするか、そんなことを考える者はほとんどいない』
 袖に残っていた虫が私に向かって口を開いた。
『もとより虫を嫌悪していた者は、無関心をとりつくろううち、真に虫の見えぬ者となる。見えぬのなら嫌がることもなく、さらにはみずから虫を愛ずることになっても気づかない』
 虫の声が聞こえないように、私は音量を上げた。波にさらわれていくように、どこか遠くへ意識を運ぼうとした。すると後ろから肩を叩かれたので、私は振り返った。

「すみません、その虫の音をもう少し下げて頂けませんか……」
 私は頭を下げ、音量を半分ほどにした。
 袖をもう一度観た。虫はもうどこにも見当たらなかった。

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