小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

「憎しみも執着です。愛されないという欠落を愛で解決しようとして失敗する。だから相手への憎しみで解決しようとしても、うまくいかない。そうすると愛と憎しみ、両方に執着するのです。『みんな注目して! わたし、かわいそうなの! わたし、特別なの』って。ああ、浅ましい。屈折していて、本当の自分からほど遠い。ああ、醜い。ああ、みっともない」
 けらけらと釈かの子が笑う。

 急に太陽に近づいたようで、まぶしい。
 右手に古ぼけた給水タンクがある、隣のビルの屋上が見えた。教室は三階にあり、隣は十階建てくらいだったはずだ。強く風が吹いて、床に頬ずりするようにひれ伏した。
 教室はいつのまにか壁と天井を失っていた。山手通りの一本裏にある雑居ビルは、斜めに傾いた、白い巨大な板になっていた。左手はコインパーキングだったはずで、滑り落ちないように苦労しながら頭を動かして目をやると、はるか下方なのか、何も見えなかった。ただ、ドロドロとした渦のようなもやいがあるばかりだ。
 まぶしい。今日も良い天気なのだろう。暑くてたまらない。
 瞼を閉じたまま黒目をずらすと、桃と橙がまじったあたたかい色が広がった。

***

 じっとりと、汗をかいていた。
 汗の湿り気で板に密着し、滑り落ちずにすむかもしれない。教室の白い床は巨大な板になったのち、プールのビート板ほどの幅になり、抱きしめられるようになった。脚もカエル開きにして板に絡みつけようとしたが、股関節が硬くてうまくいかない。
 最後にセックスしたのはいつだったか、ふと考えた。
「えーと、短い髪のあなた。お名前は、神田ゆいこさんだったかしら?」
 釈かの子が尋ねてくる。
「ただこ、です。唯一の子と書いて、タダコ。カンダタダコです」
 気に入らないへんな名前。だが、悠長に説明している場合ではない。抱きしめていた板はどんどん細くなっていく。
「このセミナー、おかげさまでここ数年、受講者さんも急増なのよ。今、捨てるのとシンプルなのがブームだから? みなさん、流行っていればどんな主義でも、それが正しいものになりますからね。でも、修了できる方が少ないのが残念です。ここまで残れたなんて、とても珍しい優等生よ、カンダタダコさん」

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