小説

『雲の猫』猫野湾介(『蜘蛛の糸』)

 祖母は節をつけて言っていた。
 宝箱の中身は、祖母にとっても子どもだったわたしにとっても心躍るものばかりだったが、お金として価値があるのは、この指輪くらいだったろう。あたかも小学生の女の子のコレクション。そういえば、翡翠を刳りぬいた朝鮮の指輪もあったような。あれはおそらく“金目のもの”で、彫ってあった模様は蝶と何の花だっただろう。
 しばらく思い巡らしたが、浮かばなかった。なぜなら、とうに手放してしまったから。薄らいでいく昔の宝物、人生に不要なもの。わたしを本当のわたしから遠ざける夾雑物。
「釈かの子の喜捨セミナー」に通い出し、わたしはモノを処分していったのだ。いけない、思い出してはいけない。まだ愛着という邪念が消えていない自分を恥じた。

「さあ、喜捨バッグを回します。愛着を手放すために、大切なものを入れましょう」
 前から順番に、布袋が回ってくる。つるつるするサテンの袋は、ずっしりと重くなっている。
 ぽとりと祖母の指輪を落とす。逆サンタクロースみたい。
 惜しくはない。これでわたしは本当の自分に近づける。まっさらの、シンプルな、素の自分に。
 インヘイル、エクスヘイル。

***

 外に出ると、色と模様がわんわんと襲いかかってきた。壁も床も天井も真っ白いプラスチックの箱のような窓無しの部屋で、白い机と釈かの子だけを見ていたから、ぐらぐらする。
 消費者金融の赤と白の看板、カフェのグレージュの壁、タクシーの濁った黄色、黒、緑、紺の制服の学生たちが背負う、色とりどりのリュック。
 喉の乾きをこらえながら、手提げ袋からパスケースを出した。
 シャネル、プラダ、ミュウミュウ、フェンディ、マルベリー、マルニ、クリスチャン・ディオール。
 かつてはいくつもバッグを持っていたけれど、喜捨セミナーのおかげですっきりし、今はこの木綿の手提げひとつだけだ。無印良品のパスケースをひらきながら、シンプルな自分に満足する。もうすぐ、渋谷行きのバスが来ると、バス停の電子コンピュータ音が告げる。
「あ、ちょっとびっくり」

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