小説

『晦日恋草』霜月透子(『好色五人女』巻四 恋草からげし八百屋物語)

 万引きの被害者と加害者の保護者。それ以上交わす言葉もない。そもそも年齢の話になったこと自体おかしいのだ。
私はもごもごと詫びながら事務所を後にした。

 外階段を降りつつ、ふと思い立って腕時計を外す。階段の途中にコトリと置くと、一番下まで降り切った。
 自宅に向かうべく身体を捩る瞬間、見納めとばかりに事務所のドアを見上げる。するとそこには小野さんが佇んでいた。開いたドアを片手で抑えながら、まっすぐにこちらを見ている。
 目が合う。視線を外すでもなく、微笑むでもない。ただまっすぐにこちらを見ている。やがて小野さんの視線がスッと下がる。つられて見ると、そこには先ほど私が置いた腕時計が「落ちて」いた。
 ――見られていた?
 私は腕時計を「落とした」ことに気付かないふりをして、御座なりの会釈を残して立ち去った。

 その日はもうなにも起こらなかった。
 あの腕時計はどうなっただろう。心無い人に拾われてそのまま行方知れずになったか、小野さんかほかの店員が拾って、持ち主不明として保管されているのか。
 いや、小野さんは私のものだと気付いているだろう。しかし、そうだとすると、なぜあの時声をかけてこなかったのか。やはり見られていたのだろうか。私がわざと「落とした」ところを。
 それにしてもだ。だったらなぜその不可解な行動を看過したのだろう。一瞬、都合のいい解釈が心を過るが、慌てて拭い去る。
 まさか。そんな。あるわけがない。――ない、だろうか。本当に……?
 うん、ないだろう。落とし主が私だとわかれば携帯にかけてくるはずだ。その連絡がないとなると、私が落としたと知らないか、もしくは――。
 最悪の考えに胸の奥がキンと冷える。――私だから連絡してこないのか。
 気付かれたのかもしれない。一目会った瞬間の鼓動を聞かれてしまったのかもしれない。「貴女」と呼びかけられた時に上気する頬を見られてしまったのかもしれない。不快であっただろう。十六も年上の女の想いなんて。

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