小説

『メイキング・オブ・吾輩は猫である』野村知之(『吾輩は猫である』)

 野だ宏と初めて会ったのは、大学の入学式だった。私の本能が言った。こいつは敵だ、と。私たちはキャンパス内の人気を奪い合い、ミス・キャンパスを奪い合い、学食のからあげ定食を奪い合った。野だは中途退学して劇団に入り、私は卒業した後、局に入社した。演技派として順調に登りつめていくあいつに負けじと腕を磨き、この世界ではまず最初に声がかかる内の一人になった。光と影の違いはあっても、私はけして負けてなんかいなかった。その事実は、お互いがプロジェクトの一員に選ばれたのをみても証明されるだろう。
 ――集中しよう。PVの画像が乱れる。おさらいのつもりが、余計な考えにまで及んでしまった。撮りは順調に進んでいる。座敷で虚子との会食を終えた漱石が、妻を呼んだ。梅さんをよこしてくれ、と命じている。按摩の名前のようだ。そう仰ると思ってもう呼んでありますわ、おっつけやってくるでしょう、と鏡子が快活に答える。うん、とだけ言ってごろりと横になる漱石。こんなたわいのないやりとりでさえも、それが夏目夫妻のものというだけで品格が匂ってくるようだ。同席していた書生が、先生食べてすぐ寝るというのは胃腸には良いようですな、ともっともらしい顔で言っている。その傍らで女中が膳を片付けていた。
 私は視点を屋敷の門口まで移動させた。地道が東へとまっすぐに伸びている。按摩を待ち受けるつもりだった。文豪に着想を与えた重要な人物である。撮っておくにしくはない。まもなく人力車が、ゆさゆさと揺れながらやってきた。彼については名前すら資料には残っていなかったが、漱石が出入とするぐらいだから人品骨柄卑しからぬ人物に違いない。いよいよ到着という段になって、向かいの下宿屋から小さな黒い影が飛び出してきた。あれよという間に路地を横切り、人力車と交差した。車体が石を踏んだほどのうねりを見せただけで、車夫は難なく門に横付けた。
 レンズは路上を映したままだ。車輪の通った跡に、炭団のような塊が落ちてある。寄せてみると小刻みにひくついていた。まだ生まれて間もないであろう子猫だった。私はいやな予感がした。
 からりと戸が開いて書生が迎えに出てきた。先生が行けとおっしゃるもんで、と不承不承按摩の手を取ろうとする。梅さんは、いえそれには及びませんや夏目先生の家なら鍋釜の位置まで存じておりますで、わしが知らんのは本棚の中身だけでさあ、と引き下がる。若い書生は不機嫌そうな顔つきになって立ち尽くした。それを尻目に、梅さんは杖をつきつき玄関に入っていく。
 按摩が奥へ消えたのを見計らって、書生がのそりと動いた。首を玄関口に向けたまま、木塀に寄りかかる。カメラの視界いっぱいに、坊主頭が映った。頭はさりげない素振りで周囲を見渡し、こう言った。
「小川、例の猫はどこだ」

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