小説

『あたま山』鴨塚亮(『あたま山』)

 ひんやりする。きつい酒の匂いもする。履物はないが、廊下の奥から笑い声がした。箸で、鍋を叩くような音も。笑い声と、鍋の音の間隔が、一定のリズムを帯び始める。そのリズムの節目に、食い気味に『ホッ!』という嬌声が入る。ゴキゲンである。
「おい、帰ってくれんか」
 そう声をかけた。居間でたゆたっていた影たちは、奇妙にすばやい動きで立ちのぼり、おれの脇をすり抜けて出ていった。食卓の上には、鍋と箸が出されていた。鍋の中は、空だった。グラスの中に入っていたのは、湯冷ましの水のようだ。人間、身体のない影にもなると、湯冷ましで酔えるらしい。経済的なことだ。
 ある日生えた芽は、切っても切っても伸びてきた。それから、何かの目印になっているのか、まともな人間でない輩が集まってくるようになった。おれにはエクソシスト的な能力はないので、「どっか行け」と口で言うしかない。今のところそれで助かっているが、今後どうなるかはわからない。
 おれは、髭剃りのように毎朝芽を切った。芽は伸びるたびに太くなり、半端な鋏では切れ込みも入れられないくらいになった。
 仕事もずっと行っていないが、やたらと首が凝る。
 もう切ることもできないので、少し前から、作戦を変えている。
 おれは、すっかりぐちゃぐちゃになった冷蔵庫からウイダーインゼリーを出して、一息に吸った。腹が減ってたまらないが、これが夕食だ。芽に栄養をやらないために我慢しているのだ。まだ若い芽と中肉中背のおれ。断食勝負なら勝てる気がした。
 ただ、空腹や何かを紛らわせるために、酒ばかり飲んでいる。酒瓶や紙パックが、台所の隅で竹林みたいに並んでいる。久しく自炊もしていない。学生の頃に戻ったような気分だ。妻に出会う前の。この、十年くらいに積み上げたものは、妻と一緒にどこかへすっ飛んでしまったらしい。
 ふと、自分は長くないんじゃないか、と思った。熱を出した夜から、底が抜けたままだ。ぜんぶ虚しい。ぜんぶ意味がないみたいに感じる。生活も、仕事も、あの湿った闇に落ちていった。

 また週末がやってきた。
 自宅でひとり、飲み過ぎて正体をなくしていた。ビールとワインと日本酒をちゃんぽんで飲み続けていた。床に並んだ空き缶。崩れ落ちたような白いビニール袋。
妻の悪口を、今更吐いていた。

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