小説

『注射を打つなら恋のように』入江巽(『細雪』谷崎潤一郎)

 りつおが帰って来たのは、九時をすこし過ぎたころで、三時間待って、感情がこじれたあたしは出迎える元気もなくて、座ったままでいた。部屋のドアを開けるまで、あたしを呼んだことを忘れていたのが、玄関から漏れる「あっ」というりつおの声や雰囲気でわかった。玄関と居室とを区切る扉をあけて、ばつの悪そうな顔をのぞかせたとき、あたしは思わず、持っていたグラスを投げつけてしまった。グラスはあいつの胸にあたり、床で割れた。中身のジンが、あたりにこぼれ、りつおの着ている黒いドンキーコートも濡らした。りつおはしょげたような顔をして、床にすわり、ちょっと黙っていた。やがて、
「かおり」
「さん」
「ごめん」
「なさい」
「つい」
「忘れて」
「いました」
 と、一つ一つ語区切りながら、とても正直に言った。あたしは泣かないようにしながら、
「ビンタする」
 と言って、返事を待たず、思いっきり、りつおの頬を張ろうとした。りつおは反射的にびくっとしたけど打たれるままでいてくれ、ひとを殴ったことのないあたしはうまく当てられず、顎の骨にあたってしまい、手が痛んだけどもう一発打たないと気がすまなかったので、今度はりつおの顔を自分の左手で支え、思いっきり打った。三発目も打とうかとかまえ直したとき、ふいに抱かれて息がつまった。堪えていた涙が出た。
 そうして五分ほど、ジンくさいコートに埋もれて泣いたり、りつおのおなかを軽く殴ったりしていたら気分が落ち着いてきた。あたしは恥ずかしくもなってきて、もういいやとすこし思ったが、からだ離す気にならず、そのまましがみついていた。伝わるあたたかさは許したいと思わせ、けれどそもそも許すとか許さないとかってどういうことやろか。なんとなくりつおのふくらはぎを撫ぜる。
 ポコッとした感触が手に伝わり、注射器を靴下のなかに隠しとるとすぐにわかり、やっぱり、と思う。今日はネタ引けたん、あたしが聞くと、とても珍しいことにやましい声、はい、とりつおは言う。よかったやん、言葉はそんなつもりもなかったのに皮肉のように響いてしまい、あたしは困った。久しぶりに打ちたいやろ、帰ったほうがいいかな、とさらに続けてしまい、それはもっと皮肉みたいな言葉で、もうなにを言ったらいいのか、どうしたらいいのか、よくわからなくなって、あたしはまたちょっと泣いた。

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