小説

『瑠璃色の記憶』本多ミル(北原白秋『あめふり』)

 その朝も、母は自分のしたいことがうまくできずに、半泣きになりながら謝っていた。
「ごめんね。敬子、これじゃ、お母さんがごはんを作ってあげられないよね。お弁当もできない。本当にごめんね」
 炊飯器が使えなかったのだ。お米も入ってなかった。スイッチを押していなくてよかったと敬子は思った。
「大丈夫だよ。ありがとうね」
 敬子はなるべく怒らない。それが得策だと知っている。それでも、週末になると憂鬱になるので、ストックする食料品などを買いだめするために、あえて隣町のショッピングセンターへ行くことがある。あの子供のころ行った映画館のあるショッピングセンターだ。最近の母は、飼い猫と留守番をすることが多い。
 敬子はショッピングセンターの中をぶらぶらと歩いて、いつも自分のためにコーヒータイムをする。ほっとするひとときの時間を作ってから家に帰るのだ。
目の前のコーヒーの香りから漂う気持ちの豊かさは、今の敬子の薬のようなものだ。
 家事に追われ疲弊感に包まれた休日が過ぎ、次の日の夕方だった。敬子の携帯が鳴った。ケアマネからだった。
「さきほど、お母様が急に倒れまして、救急車で運ばれました。私が付き添っていますが、脳梗塞の疑いがあります。今から検査入院なので、大至急こちらにいらしてください。気をつけて」
 敬子は「大丈夫です」と、平坦に答えた。
 母は、やはり脳梗塞だった。手術後、人工呼吸器と点滴などたくさんの機械に囲まれて、ベッドの上で眠っている顔は穏やかに見えた。だれもが通る道ならば、このまま違う世界に行ってしまうのもいいような気がしてしまう。母にとっては、父のそばが永久の安らぎかもしれない。認知症になっていく苦しい自分の心から、楽になれるのかもしれない。(なんて娘なんだろう。こんなことを考えるなんて……)と、敬子は頭を振った。
 それから、敬子の母は、一週間でICUから出て一般病棟に移された。

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