小説

『瑠璃色の記憶』本多ミル(北原白秋『あめふり』)

「駆け引きしているのよ。そう、したたかなの。ちゃんとあなたがなにかをしてくれるって、そう頭に浮かんでいるの。強いわよー。怖い。このままだと、あなたが引っ張られてラストチャンスの仕事の運、来年からの幸運期が潰されてしまう。逃げるのよ……今、この呪縛から」
 ショウワさんは、テーブルの上の敬子の右手を、年相応のしわがある温かい両手で握りながら、まっすぐにその目を見つめた。そのショウワさんは、最近、100歳を越えた自分の母親の最後を看取ったと話した。
「母親の呪縛から逃げなさい。自由になるの」
 そして、敬子はいつも、ショウワさんのそんな言葉でなおさらのこと、(逃げない)と、確信するのだ。ショウワさんは、逆のことを言っているのかもしれないとさえ思ってしまう。
 私は、泳ぐのに限られている金魚鉢から逃れたかったと敬子は思う。あのときに逃げていたら……周りの環境や実家の境遇からも解放されていたのだろうか? 現実から完全に逃避することはできたのだろうか? その機会を逃がしたと思う。アメリカ人の彼に結婚しようと言われて、別れたことに後悔はしていないと言ったら嘘になる。しかし、現実にできなかったから、今がある。なにから逃げるというのだろう? ショウワさん、私分からない。
 敬子は、右手首にあるラピスラズリのブレスレットを左手で撫でた。ラピスラズリには、邪気を退けるという浄化の働きがある。また、自分の心の邪念もとり、カルマの本当の意味を教えてくれると言う。それは、彼がプレゼントしてくれたものだ。敬子は、今夜それをベランダのテーブルに出して、月光浴させて浄化しようと思いついた。今日は満月のはずだ。
 敬子は、この週末にまた、駅ビルの占い館に寄るだろう。

 敬子が望んでもいないのに、年に何回か同じような場面を見てしまう夢がある。敬子がまだ幼かったころ、母親と一緒に映画館に行ったときの夢である。
 暗い映画館の中で、子供の敬子が嬉しそうに映画を見ている。隣席には母がいて、微笑んでいる。おもしろくて楽しい場面では、ふたりは顔を合わせて笑っている。

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