小説

『神かくしにあった少年』小笠原幹夫(『諸国里人談』)

「きょうはどこから来たのかね?」
と主人がきくと、
「秩父の武甲山ぶこうざんの山中を今朝出てきました。長いこと留守にして、さぞお手不足てぶそくだったことでございましょう。申し訳ありません」
という返事です。
 主人はいよいよ不思議に思って、
「そんなら、いったい、お前はいつこの家を出たのかね?」
ときくと、
「去年の十二月十三日のすすはらいの晩でございます。祈祷師きとうしのような人に連れていかれ、それから昨日まで、武甲山におりました。毎日別な山伏やまぶしのお客さまがあって、そのためにお給仕をしておりました。それが昨日のこと、明日は江戸に帰してやろう、土産に岩茸を掘って持って行くがいい、ということで、これを掘ってきたのでございます」
という返事でした。
 もちろん、この印刷所では、小僧が煤はらいの晩から家を出て行ったことなどには、誰一人として気づいた者はなかったのです。いや、小僧はついさっきまで、ちゃんと家にいて、手拭いと石けんを持って銭湯へ出かけて行ったではないですか。すると銭湯へ行ったのは小僧ではなくて、小僧の身がわりをつとめていた別人だったのでしょうか。
 わたくしはこう考えます。銭湯へ出かけた小僧も、神かくしにあって山へ行った小僧も、決して別人ではなく、同一人物だったのではないか。同一人物が一定時間の間、二つの人格にわかれ、別の場所で別の経験をしたのだ、と想像したほうが妥当(だとう)なような気がします。
 あるいはまた、十二月十三日から正月十五日までの時間はもっぱら小僧の幻想であって、この時間はふつうの人にはいつものとおりの長さでしたが、小僧は銭湯へ出かけてから帰ってくるまでの短い時間に、秩父の山での経験をすべて味わったのだ、と考えたほうがさらに面白いかもしれません。
 こう考えると時間というものは伸縮自在で、缶詰めのように押しちぢめることもできれば、複雑に伸(の)びひろげることもできるらしいのです。お能に「邯鄲かんたん」という曲があって、「一炊いっすいの夢」とか「盧生ろせいの夢」という題名で呼ばれることもあります。

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