小説

『座布団』村崎香(田山花袋『蒲団』)

 退職辞令の交付日が近づくにつれて、少しずつ彼女の机周りの物品が少なくなっていった。そして一つだけ、増えたものがあった。
 飾り気のない彼女だが、あの華奢なペンダントのほかに、指輪をつけるようになったのだ。
「可愛い指輪ですね! 贈り物ですか!?」
 同期の女性社員があまりに彼女にしつこく訊ねるので、俺には大方の予想ができてしまった。彼女は仕事を辞めて、結婚するつもりだ。寿退社と騒がれるのが嫌だったか、あるいは噂になるのが面倒な相手なのか、気になることはまだまだ多いがそこまで彼女は語らなかった。
 好きだから、これからも知り合いでいてほしい。
 スマートフォンの番号は互いに教え合っているから、消去しなければ、彼女との繋がりは保っておける。しかし、俺には、そのような告白はできなかった。まして、好意を伝えることもできなかった。だから彼女とは最後まで何の進展もないまま共に過ごし、そして、彼女は辞令を携えて行ってしまうまで、何もすることはできなかった。
「要らないものは置いていっていいよ。次にこの席に使う人が使ってくれるかもしれないし、使わないなら、俺の方で捨てておくよ」
 そう言ったがために、会社の経費で落としておきながら私物化していた文房具と、彼女が担当した仕事に関する資料が入ったファイルと、一年間彼女が使い続け、少しだけ薄くなった座布団が残された。座り心地の悪い椅子だから、次に来る人がお気に入りのクッションを持ってくるまでこのままにしておいて良いと、彼女は最後に言ったのである。
 その日、俺は残業した。同じフロアに誰もいないことを確認してから、俺は家から持ってきた大きな包みを開く。
 殺菌・消臭のスプレーと、布団クリーナー。彼女の残り香を吸い込まないように、俺は少しだけ距離を置いて、スプレーをかけた。スプレーを敢えてミントの香りにしたのは、フローラルな香りだと逆に彼女を思い出してしまうからだ。
 辺りがミントの香りに包まれてから、至近距離で彼女の座布団にスプレーをかけた。これで彼女の柔らかな残り香は、全て消し去った。

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