小説

『それぞれの密』柿沼雅美(谷崎潤一郎『秘密』)

ツギクルバナー

 寝室は別がいいと言った。
 それは決して愛していないからではなくて、仕事から帰ってきて風呂に入って団らんというものをして、さてじゃあ寝るか、と一人きりになったときにやっと自分で自分を慰めてやれるような気分を捨てたくなかったからだ、決して愛していないわけではなくて。
 今はあたりまえのように23時頃になれば、瑛子も英美も自分の部屋に入って眠りにつくリズムができている。瑛子はパートのシフトを確認していたのかもしれないし、英美は高校の友達とメールだかラインだかをしていたのかもしれないが、そこはそれぞれでいい。
 自分はパジャマを脱いで、毛玉のついていないジャージに着替え、ダウンジャケットを羽織った。
そっとドアを開けると、廊下は真っ暗だ。すぐそばの階段から1階の廊下を見下ろしても明かりは見えず、階段を降りてもリビングには人の気配はなかった。2人が2階の自室にいたことがはっきり分かり、すでにそこから離れていることに安心して、スニーカーを履いて家を出た。
 きっかけは気まぐれな考えだったかもしれなかった。自分の身のまわりを包んでいる賑やかな雰囲気から遠ざかって、家族や友人からもひそかに逃れ出ようと思い、方々と適当な隠れ家を探し求めた挙句、電車で4つ行ったところに、真言宗の寺のあるのを見つけて、そこの裏の物置を借りることになった。荷物は秘密裏にするものでもないと説明すると、ちょうど空いているから使えばいい、と寺の若い人が教えてくれたのだった。寺では、定期的に若い人が大勢で写経をしていたり、精進料理ランチを食べるために並んだり、昔では思いつかないような人の集め方をしていて賑やかなことも多いため、そもそも怪しいものは置けるわけがなかった。自分の他にも、近所の子供が拾った漫画を隠したり、捨てるにも金がかかる折り畳みテーブルや小さいソファを誰かが置いていたりした。
 東京の下町はおしゃれな若い人に人気、と英美が言っていたが、ガイドブックに載っているモダンな喫茶店や猫が多く住んでいる道くらいしか知らないだろうと思う。それに比べてここは、黄橙色の土塀の壁が長く続いて、如何にも落ち着いた、重々しい寂しい感じを与える構えであった。

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