小説

『三万年目』清水その字(古典落語『百年目』)

「おい、待ちなさい!」
 怪しく思ったのか、警備員が呼び止める。ハナグロは足を速め、居眠り中の受付嬢の前を通過し、博物館から飛び出した。すると今度は別の声が聞こえた。ハナグロにとっては聞きなれた、ドスの効いた声だった。
「ハナグロ、こっちだ!」
 見ると生垣の陰で、大きなブチ猫が手招きしていた。ハナグロは思わず叫んだ。
「た、大将! ご無沙汰しております!」
「何言ってやがる、早く来い!」
 二匹が転がるように生垣の裏に入ると、猫又の大将は手を掲げ、パンパンと打ち鳴らす。その途端、巨大な肉球からまばゆい光が放たれる。ハナグロは思わず目を閉ざし、自分の体が浮き上がるのを感じた。



 それからしばらくして気がつくと、ハナグロは人間の姿から、猫又の姿に戻っていた。何か柔らかい物の上に座っていると思えば、そこはマカの膝の上だった。まだ変化したままの彼女は牙の消えた顔で、申し訳なさそうにハナグロを見下ろしている。
 そして、すぐ側に大将がいた。
「いやはや、お前が人間の町へ行ったと聞いて、心配して様子を見に行ったんだが……正解だったなァ」
「ごめんネ、ハナグロ」
 苦笑する大将と、陳謝するマカ。辺りを見回し、今いるのが山中にある猫又のアジトだと理解した。どうやら大将が妖術でここまで運んでくれたらしい。
「大将、ご迷惑をおかけしまして」
「別に構わんよ。……お前さっき、俺様に『ご無沙汰しております』なんて言ったな?」
 尻尾の毛づくろいをしつつ、大将は思い出したように言う。

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