小説

『三万年目』清水その字(古典落語『百年目』)

「マカさん、日本に来てからもう一ヶ月でしょう。時差ボケってのはそんなに続くもんですか?」
「今日も鼻が黒いネー」
 彼女はツッコミを無視し、鼻を指先でくすぐってくる。ふわりと良い匂いが漂い、ハナグロはやれやれと苦笑した。
「消すように修行してるんですがね」
「私は好きだけどナ、これ」
 笑いながら、黒い模様の淵をなぞるように指を動かす。くすぐったくてムズムズしてきたハナグロは思わず身を逸らした。彼女にはどうにも叶わない。
 このマカという女妖怪はブラジルからやってきた。昨近の日本ブームは人間社会に限った話ではなく、妖怪の間でもクールジャパンが広まっているのだ。例えば西洋の歯の妖精の間では日本の子供の乳歯は質が良く長持ちするとして人気があり、輸入代理店まで作られている。他にもアイルランドの妖精リャナンシーたちが俳句に傾倒したり、人狼ルー・ガルーがニホンオオカミの生き残りを探しにきたり、ロシアの水魔ルサルカが河童に嫁入りしたり、様々な分野で国際交流が活発になっている。マカもそんな日本趣味で来日した妖怪だが、どうにも正体は分からない。ただ猫又の大将から、彼女は途方もなく長い年月を生きている偉大な猫族なので、客人として丁重に扱わなければ食っちまうぞと脅された。
 パッと見ただけではそんな凄い妖怪でもなさそうだが、二百年生きている大将が言うからには相当なものなのだろう。ただそんな偉大な妖怪がどういうわけか、やたらとハナグロに興味を持っているのだ。
「今日は釣れたノ?」
「今始めたばかりなもんで。マカさんは鹿狩り、上手くいきましたか?」
 昨日は一緒に鹿を捕りに行かないかと誘われ、丁重に断った。いくら猫又でも、鹿のような大きな生き物を相手にしようとは思わない。
「それがさぁ、鹿を捕るつもりが熊に出くわしちゃってネ。喉元に噛み付いて仕留めたノ」
「……そりゃすげぇ」

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