小説

『Obligat』木江恭(『安珍・清姫伝説』)

 風の気配を漂わせながら、言葉を持たぬオルガンが歌う。あなたはいつも、わたしのこころのなかにいる。いつも、ここに。
 ――あの日、彼は。
 強い西日を背に受けて、きりりとした立ち姿がくっきりと浮かび上がったあの狭い部屋で、彼は低く囁いた。
 必ず帰ります。
 玉砕こそ勇気と讃えられていたあの時勢に、確かに彼はそう言った。清子の手をぎこちなく取り、おそるおそる握りしめて。
 必ず、帰ります、と。
 清子は何と答えただろうか。ご武運を、どうぞご無事で、ご活躍をお祈りします、駄目だ、思い出せない。何か言葉を発するより先に、登喜子が戻ってきたのだったか。
 翌日、彼は出征した。南の戦線に送られるという話だった。
 そして、帰ってこなかった。
 コロコロと軽やかに鳴る白木の箱を抱いて登喜子が泣きじゃくるのを、清子は呆然と眺めることしかできなかった。
 必ず帰りますと、約束したのに。
 気がつけば、清子はあの日のあの部屋にいる。ざらりと毛羽立った畳の感触、古びた家具の匂い、斜陽を受けてきらきら光る綿埃、夕日色に染まった部屋でそっと息を潜める小さなオルガンの前に、彼が立っている。
 彼は清子の手を取って、黄ばんだ鍵盤の上にそっと置く。清子は左足をペダルに載せる。その小指は、すぐ隣にある彼の骨ばった右足の指の気配を感じている。
 清子はそっと左足に力を込める。ペダルは滑らかに躍り、楽譜など見たこともない清子の指が独りでに音楽を奏で出す。
 時折、左足の小指が彼の足の甲に触れる。彼の左手はオルガン本体に添えられている。右手は、清子の肩に。
 オルガンは息も継がず、豊かな音量で高らかに音楽を歌い上げる。溢れる音は壁を駆け上がり、天井を這い、畳に跳ね返り、うねりながら小さな部屋を一杯に埋め尽くしていく。

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