小説

『月満ちる時』但野ひまわり(『竹取物語』)

 いつものように家を出た。
 朝は鶏が鳴く前に起床し、夫のお弁当と朝食の準備に取り掛かる。夫が起きると一緒に朝食を摂って、仕事に行く背中を送り出す。その後、洗濯のため家を出るのだ。汚れた衣類をたらいに入れ、脇に抱える。洗濯と言っても私と夫の分だけなので、軽い。
 洗濯はいつも近くの川でする。ご近所が集まって一か所でわいわい言いながらすることもあるが、ちょうど川が私の家の近くに流れているので、ここ最近はそこで済ませることにしている。それにひとりなら、煩わしい会話に入らなくて済む。
 ここ最近の話のネタは、最近子供を授かった小梅さんのことで持ちきりだった。小梅さんは私と同じ四十になる歳だが、ある日川で洗濯をしていると大きな桃が流れて来たそうだ。それを持ち帰り割ってみたところ、とても元気な男の赤ん坊が出て来たという。小梅さんの所もその歳まで子供が出来なかったから、その喜びは天をも突き抜けるほどだっただろう。「子供はきっと神様からの贈り物だ」「小梅さんの普段の行いが善かったからだ」と、ご近所の奥様方は、そうはやし立てるのと同時に、私には憐れむ眼差しを向けてくるのだった。
 子供は欲しかったが、結局この歳まで一度も出来なかった。早い人は二十代、いや、十代後半で恵まれるというのに、私には一度もその兆しすら現れなかった。念のため夫と一緒に診療所で診てもらったことがあるが、どちらにも異常はないということだった。子供が出来ない苛立ちをどこにもぶつけることも出来ず、夫とは次第に会話も減り、床を共にすることも無くなった。今では必要な会話をするだけになっている。
 早くに子供を生んだお母さんには既に孫がいるところもいた。羨ましいなと思いながら、大家族の洗い物をするお母さんに代わって歩き始めたばかりの子供をあやしてあげていると、その子が私のことを突然「ばぁば」と呼んだ。その子のお婆ちゃんと私が同い年だから、そう思っても仕方がないが、子供の無邪気なその言葉は私の胸を容赦なく抉った。私はもう、そんな年齢なのだとその時思った。
 川のほとりに屈み、たらいに川の水をくみ上げる。衣を水に浸し、洗濯板でごしごしこすり始める。ふと、上流に目をやってしまう自分に時々可笑しくなる。小梅さんのように、大きな桃が流れて来ると期待しているのだろうか。その中から赤ちゃんが出て来ると期待しているのだろうか。それはどれも奇跡に近い夢物語で、私に舞い降りて来ることはない。

     *

1 2 3 4 5 6 7 8 9