小説

『音がきこえる』Mac(『トカトントン』太宰治)

 引っ越しの挨拶、という文化は一人暮らしの場合では防犯面だとかなんだとかで、やらないほうがいいらしいです。特に女性の場合は。とかなんとか書かれた記事を昨日ネットで検索して確認しました。しかしするかしないかでいうなら、こういうのはしたほうがいい、と思う派の人間でございます。私は。
「はじめまして、隣に引っ越してきた大野です。よろしくお願いします」
「ああ、はい。どうも。佐伯です」
 右隣の二○一号室の人に、挨拶をします。隣に住んでいる人も私と同じくらいの女性。そりゃそうです。女性専用マンションと不動産屋さんの資料に書かれていたのですから。
 さて、こういう引っ越しのご挨拶ではよくソバがプレゼントされています。しかし一人でのマンション暮らし、となると全く自炊しない人もいる可能性もあるかと。それにソバはアレルギー持ちの人にとっては嫌がらせ以外の何物でもないでしょう。
 そこで考えたのがトイレットペーパーやティッシュペーパーといった日用品ですが、これでは個性がありません。別に個性を出す必要はないんですけども、こういうのは個性が大事だと思うんです。
「これ、おすすめですのでどうぞ召し上がってください」
「はい、ありがとうございます」
 そこで選んだのは私も好きなかりんとう。箱に入ったもので、千円ほど。かりんとう。たぶんかりんとうを嫌いという人は小麦粉アレルギーか歯槽膿漏な人くらいじゃないかと思います。かりんとうは戦争を消します。平和をもたらすでしょう。心を豊かにします。世界が広がる。対してかりんとうひとつにそこまで思い入れてしまう私の心は狭いのです。
「では、よろしくお願いしますね」
「はいはい」
 なんか言葉が続かなかったため、とりあえず挨拶をもう一度してみました。どうやら佐伯さんは、あまり他人と関わりを持ちたくない派の人なのかもしれません。そうなると今後の良好な関係を築くためにはあまり深入りはしないほうがいいでしょう。
 あ、もしかしたら今忙しかったのかも。その可能性を今まで考えていませんでした。となればとっとと退散したほうがいいですね。
「し、失礼します」
「うん」
 佐伯さんがドアを閉めるので、私は恭しく頭を下げます。

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