小説

『タンホイ座』佐藤奈央(『タンホイザー』)

30歳になる誕生日の朝を、背理(はいり)ヒトシは新宿・歌舞伎町のゴミ捨て場で迎えた。
生ゴミにまみれた安物のスーツ。連日の熱帯夜で、辺りは強烈な匂いが漂っている。耳元でカラスの鳴き声がして飛び起きた。頭上には、電飾が消えたピンク色の看板。「ソープランド ヴィーナス」。昨晩は蠱惑的に誘った文字が、今は、やけにそっけない。

さかのぼること12時間前。ヒトシは重大な決意のもとに、この地に立った。
きょうこそ捨てなければならぬ。決別せねばならぬ。このまま30歳を迎えて「魔法使い」などと揶揄されるのはゴメンだった。そう、ヒトシは童貞だったのだ。そこそこの大学を出て、まぁまぁの商社に就職し、無難に働いてきた。顔は地味だが、彼女のような存在がいた時期もある。何にせよ「平均的」なヒトシだったが、どういうわけか、ここまで女性の体だけは知らずにいた。

「ソープランド ヴィーナス」は、目くるめくパラダイスであった。現れたのは、店の「イチオシ看板娘」ヴィーナス嬢。童顔に巨乳という夢の組み合わせに、ヒトシは一瞬たじろいだが、いざコトが始まれば、自分でも驚くほど開放的になれた。日頃、自分から女性にはあまり話しかける方ではなかったが、嬢とは会話が弾んだ。導かれるまま、愛欲と快楽の渦へと突入し、気づけばあらゆるオプションをつけ、延長に継ぐ延長。しかし財布の中身が尽きる頃、時間がやってきた。午前0時。入口のドアが勢いよく開くと、いかついオッサンが入ってきた。
「兄ちゃん。それぐらいにしておけや。ウチは一応、風営法守って営業してるんでね」
有無を言わさぬド迫力に、ヒトシの欲望と股間は一気に縮み上がった。パンツを最後まで上げ切らないうちに、オッサンに首根っこをつかまれ、路上に放り出されたのである。その時「また来てねぇ~」という嬢の声が聞こえたような、聞こえなかったような……。

ジンジンする頭と股間を抱え、ヒトシは複雑な気持ちだった。達成感とむなしさ。そして「鉄の掟」に背いた罪悪感―。うつらうつらと考えるうち、いつしか眠りに落ちていた。
                  ◆
出勤すると、見慣れたはずの社内の光景が、いつもと違って感じられた。心なしかオフィスが広々として、照明が明るい。めったに会話しない女子社員が、なぜか気さくに話しかけてきた。ヒトシはハッとした。童貞を捨てるとは、こういうことなのだ。自分が変われば、世界も変わるのだ。退屈だった仕事にも、なんだか意欲がわいてきた。

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