小説

『桜の木の下にて』大野展(『桜の木の下には』)

 これはますますうかつに動けなくなってしまった。手の甲の生き物が遠ざかるのを待っているうちに、悪いことにさらに頭や足の方からも同様の感触が伝わってきた。まずい。私は囲まれてしまったのだろうか。頭の方からやってきたその生き物は少しずつ私の顔の方へ移動し始めた。私の身体は恐怖で硬直した。ついにそいつは私のほおに触れた。私はそのぬめぬめ感からやはり蛇かと思ったのだが、どうもそいつの体が柔らくない。いやむしろ、固い。その時私は、昨日の彼の話を思い出した。そうか。これは桜の根なのか。桜の根が私から養分を吸い取ろうとやってきたんだな。
 やがて桜の根は私の身体の周囲に次々と集まりだし、ついにはズボンのすそ、シャツのそで、首元から私の素肌へと侵入し始めた。腕、胴体、足、頭ほとんどの部位に根がからみついたころ、土に埋もれて暗闇であるはずの私の眼前に、最初はぼんやりと、しかし次第にはっきりと奇妙な光景が映し出された。
 おびただしい数の人が、かなたの地平から道もない荒れ果てた大地を延々と列をなして歩いている。老若男女様々な人がいる。ただし老人がかなり多い。そして私が最も奇妙で寒気すら覚えたのは、人々の顔からは全く精気が感じられないことだった。会話をしている者など誰もいない。ただ前を向いて黙々と歩くだけ。しかし皆表情は柔和だ。見方によれば微笑んでいるようにも見える。まるで何かから解放されたような。空は濃い灰色でおおわれていて、あたりは薄暗かった。その濃い灰色が雲がかかっていることによるものかどうかは分からない。夕暮れのようでもあるが、違う。じきに夜の闇が訪れ、やがてまばゆい太陽の光に明るく照らされる朝が来ることが予期できる、あの健全な夕刻の風景とは本質的に異なっている。ここは永遠に薄暗いままなのに違いない。
 これはもしかして・・・。大学で民俗学を専攻していた私は、過去に見たことのないこの光景から直感するものがあった。
 私は黄泉の国を見ているのかもしれない。
 桜の木が私を死んでいると勘違いして、死者の国のイメージを見せてくれたのだろうか。
 死者たちが目指す先の地平には、山と思われる巨大なシルエットがそびえ立っていた。どうやら彼らはそこへ向かっているらしい。あの彼方にある山には何があるのだろう。それが知りたくて死者の列に加わりたい誘惑に駆られた時、目の前の光景がふいに消え去り、元の漆黒の闇に切り替わった。桜の根が私の身体から離れていくのが分かった。どうやら私が腐っていないので、何も吸い取ることができないことに気づいたからのようだ。私もここらが潮時と判断し、地中からはい出るために、自由の利かない手を使って必死で土をかき分けた。

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