小説

『猫の記憶』柿沼雅美(『黒猫』)

 高校1年生から卒業するまで、麻美は佐藤先生が好きだった。顔立ちがかっこいいわけでもなく、しゃべりが上手なわけでもなく、授業は歴史を語るのではなく歴史を語っているビデオを見せるほうが多かったけれど、好きだった。
 女子校だったからか、若い男性教員は好かれることが多かった。佐藤先生ももれなく人気があった。キャーキャーされるタイプではなく、ガチ恋されるタイプで、やっぱりもれなく麻美もその中に入っていた。
 先生だから誰にでも優しく丁寧だった。家庭科で作ったお菓子を生徒が持ってくれば全て受け取っていたし、バレンタインデーと誕生日にプレゼントを持って行った生徒がいればいつも笑顔で受け取っていた。
 ほかの子がどうしていたかは知らなかったけれど、麻美は唯一佐藤先生と2人になれる時間を知っていた。
 佐藤先生は授業の前後に、階段横にある教材準備室に立ち寄っていた。教室にはテレビがないから準備室からテレビをキャスターラックごと運ぶ必要があったし、大きな地図や資料を使うときも準備室から用意していた。
 佐藤先生が準備室に入って少ししてから、他の生徒が見ていないのを確認して、麻美は準備室に入った。サスペンスドラマのようにドアを後ろ手にしてそのまま鍵を閉めたこともあった。
 おう、と佐藤先生は歓迎するでも嫌がるでもなく、それが当然のように声をかけてくれた。麻美はいつも、うん、とだけ返事をしていた。どう見ても照れていたから佐藤先生はとっくに気づいていたんだろうし、気づかれているのが楽だった。
 初めて佐藤先生のスーツの袖を掴んだのも、何も言わないまま見つめ合ったのも、匂いが分かるくらい近づいたのも、その場所だった。卒業したら付き合ってくれる可能性はあるの、と聞いた麻美に、卒業したら考える、と言ったのもその場所だった。
 麻美が右手を前に差し出すと、少し間を置いてから佐藤先生が手に触れた。チャイムが鳴るまで、二人はそうしていた。人差し指と親指が何度も絡んだ。授業と授業の間のほんの5分間が、麻美にとって全てだった。
 ホームに電車がやってきて、風が首に刺すように、急に寒さを感じた。友達待ってるから、と嘘をついた麻美に、佐藤先生の手はゆっくりバイバイと振られた。
 麻美はその夜、時間が経ち過ぎたんだ、と呟いた。

1 2 3 4 5 6