小説

『ホントの気持ち』山本康仁(『鶴の恩返し』)

「ここなら大丈夫だから」
 そう言い残すと、裕樹は自転車にまたがり去っていった。

「無理、しないでね」
 その日の夜、香苗の部屋の前でふたりはいつもの会話を交わす。
「分かってる。ただ……」
「見ないで欲しいんでしょ」
「そう。ぜぇ~ったいに。おっかしいなあ、変だなあと思っても」
「絶対に見ないよ」
「ぜぇ~ったい?」
「約束する」
 その揺るぎない笑顔が、逆に香苗を哀しくさせる。もしかしたら本当に、裕樹は今夜も覗かないかもしれない。このままずっと、わたしは見られないかもしれない。
 裕樹の部屋から聞こえていた音楽が止まり、香苗がスーツを作り始めて二時間ほどが経った頃だった。裕樹の部屋のドアが開く音がする。すっと手を下ろし、香苗はドアを一直線に見つめる。
 今夜こそ、あのドアが開けられるに違いない。
 裕樹の足音はトイレへ向かい、そのまま香苗の部屋の前で止まる。香苗はまるでそこに裕樹が立っているかのように、静かなドアを見つめた。
 五分ほど待っただろうか。玄関の鍵が閉まる音がして、香苗は「はぁ」とうつむいた。
 このまま今夜も、何も起こらないのだろうか。香苗は中断していたスーツ作りを始める。

 看板の明かりを消したスナックの中で、裕樹は二杯目のウィスキーを自分で注いだ。
「家にいると、今夜は本当に開けちゃいそうなんだ」
「開けちゃいなさいよ、そんなドアのひとつやふたつ」
 隣りの椅子に掛け、ママが自分のグラスを見つめながらつぶやく。
「あり得ないとは分かってるんだ、そんなお伽噺みたいなこと。でもそれなら、見られたくないよっぽどの理由があるってことでしょう?」

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