小説

『寝太郎、その後』伊藤円(『三年寝太郎』)

 と、村人の叫び声が響きました。はっ、と流石に私は息を数えるのを止めました。立ち上がって隙間を覗き込むと、なんと、さっき村人が居た辺りにこれまでとは比べ物にならない濁流が押し寄せていました。村人や木々を一緒くたに飲み込み降下して、けれども、まるで水路を通っているかのように行儀よく一本道を拵え、村に侵入してくる気配もありませんでした。でも、叫び声と、土砂崩れと、聞いたことのない歪な轟音が遠く隣を通り過ぎて、私は、あまりの恐怖に立ち竦んでしまいました。
「……ほらね。大丈夫」
 やがて、太郎さんが言いました。ゆっくり振り返ると、にこ、にこ、何故だか微笑んでいました。むくり、腰を上げると裸足のまま玄関に降りて、ばきん! と強烈に戸を蹴り破りました。
「おいで」
 そっ、と手を引かれて私は外に連れ出されました。見回せば、丁度、村の外周を囲むようにして新たな土色の川ができあがっていました。それに私ははっ、と過るものがありました。それは嫁ぐ前の太郎さんの働きのことでした。村の回りを囲むように掘っていたという穴のことでした。途端、恐怖のようなものが背筋を伝って、ぽとり、持ち続けていた紫陽花を落としてしまいました。
「……た、太郎さん、こ、このことも、まさか、」
 震える唇を制しながら言うと、
「言った通りだったろう」
 と、太郎さんはぐぐっ、と背伸びまでするのでした。
「太郎さん! なんで! どうしてそれを村人に教えてあげないんですか!」
 私は叫んでいました。太郎さんは雨に濡れながら紫陽花に近寄って、それからくるっ、と振り返ると、手には紫陽花を一つ積んでいて、
「ユメさんだけだよ。この村で、綺麗なのは」
 と言って、私に紫陽花を手渡しました。そしてすっ、と横を通り過ぎると、
「やっと静かに眠れるよ」
 と言って、家に入っていってしまいました。

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