小説

『お局ミチコと僧』ノリ・ケンゾウ(宮沢賢治『オツベルと象』)

「ねえ住職さん。私、あれが欲しいの」
「ええ、ミチコさんのためなら…」
 留まることを知らないミチコの要求に、段々と疲弊していく僧侶であった。そんなことなど露知らず、ミチコは思う。ああ私って、なんて幸せな女。

 とある金曜日。ミチコの三十六の誕生日である。仕事を終えたミチコは、仕事場まで迎えにきた僧侶の赤いフェラーリに颯爽と乗り込む。それを見てざわつく後輩社員たち。うわあ、乗った!見て!ミチコさん、フェラーリ乗った!
 二人がフェラーリに乗って訪れたのは、港区にある某有名高級フレンチレストランであった。ミチコの手を取り店の中へエスコートする僧侶、白を基調とした内観に僧侶の黄色い袈裟がよく映えていた。明らかに場違いな姿であるにも関わらず、これがドレスコードですと言わんばかりの堂々とした僧侶の佇まいに、周りの客は目を丸くして驚き、厨房にいる若いフランス人シェフもたまらず、「おお、これがジャポンか!」とフランス語で。
 しかしながらミチコはお構いなしであった。周りの視線を一斉に浴びようとも、僧侶がフレンチ料理をナイフやフォークではなく自前の箸で食べようとも、僧侶が紙ナプキンを膝の上に広げるのではなく、前掛けに使うので黄色い袈裟とレイヤードになってしまっていることにも、まったくお構いなしであった。いいではないか、紙ナプキンを誰がどう使おうが。という風に寛容な心持ちであったわけではない。ただただ目の前の高級フレンチに夢中であった。次から次へと運ばれてくる、舌がとろとろに溶けて抜け落ちてしまう程に美味なフレンチに、ミチコは満ち足りていた。満ち満ちていた。ああ美味しいわ!なんて素敵な誕生日!
「ミチコさんお味はどうですか?私はこういうお店には慣れてないので。正直、よく味が分かりません」と照れくさそうにする僧侶。
「とても美味しいわ。誕生日にこんなに素敵なフレンチを嗜むなんて、きっと私の職場の女たちには人生で一度たりとも訪れないわよ」
「…はは、そうですか。私はミチコさんが喜んでくれたら、それだけで充分です。グーグルで高級フレンチレストランを検索した甲斐がありました。本当に偉大ですね、グーグルは」
「ふふ、住職さん、あなたと出会えてよかった。これで私の人生、薔薇色よ」
 微笑むミチコ。微笑み返す僧侶。
「ミチコさん、今日は何の日だか、分かりますか」
「ええ、もちろん。今日は私の誕生日よ」

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