小説

『桃産』大前粟生(『桃太郎』)

「あぁ、なんでなんだよ。なんで予定日にいっしょにいられないんだよ。もう、あんな会社やめてやろうかな」と夫がいった。
「落ち着いてよ」と私。おろおろすべきは私なのに、おろおろしている夫を見ていると少し落ち着く。夫は有給休暇をすべて使い果たしてしまっていた。
「ほら、あなたは桃と私のために仕事にいってきてよ」
「でも」
「ほら、がんばってよ。お父さん」
「そっか、おれ、お父さんになるんだよな。よし、いってくる」
「待って。ネクタイしてない」
「え、あぁ。あぁ……。やっぱり休むよ。風邪ひいたとかいってさ」
「またそんなこといって。あ」
「あ?」
「やばい」
「へ?」

 たとえるなら、膣から大きな桃がでてくるような痛みだった。というか、まさにそうだった。私のなかから桃が出ようとしているのだった。人から桃が出てくるなんて、異常なことなんじゃないかと思った。けれど、それが自然なことなのだ。今まで数えきれないほどの人のなかから桃が出てきたのだから。
「どんぶらこ! どんぶらこ!」タクシーのなかで夫は私の代わりに〈どんぶら呼吸法〉をしている。「どんぶらこ。どんぶらこ」急に妊婦が飛び込んできてアドレナリンが出たタクシーの運転手さんも〈どんぶら呼吸法〉をしている。「ちがう! 運転手さん! どんぶらこ。じゃなくて、どんぶらこ!」「え、あぁ」「痛いって! 死ぬって! あんたたち! もっと私を気づかって! くそ! この! 男どもめ!」

 病院に着くとすぐに桃産のために分娩室に運びこまれた。何回もいきんで、いきんで、どんぶらこ! どんぶらこ! いきんで、どんぶらこ! どんぶらこ! 何時間も、何時間も。気が遠くなるくらい。気絶できたらどんなに楽だろうと思った。
 もう一生この痛みが続くんじゃないかって、あきらめはじめたとき、助産師さんが大きいスプーンみたいな器具を私の膣のなかに入れた。

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