小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

 行為が終わってしまうと、彼はいつものように彼女を現実に残して眠り始めた。彼女もいつものように、シャワーを浴びるためにベッドから起き上がった。
 彼が帰って来てからずっと、彼女は部屋の中にいた。彼は彼女の側から片時も離れていなかった。だから彼女はその事実に目を疑った。
 人魚の絵に掛けられた白い布は、彼女の掛け方が悪かったのか、フローリングに滑るようにして落ちていた。ベッドを降りた彼女は、まずそのことに気がついた。そして導かれるように視線を上げ、人魚の絵を見つめた。
 そこに、人魚の姿はなかった。
 木製の椅子だけを残し、人魚は絵の世界から消え去っていた。
 彼女は脱ぎ散らかした服を拾い始めた。急ごうとするのに、恐怖で体が上手く動かなかった。水の中を動いているような感覚だった。もどかしかった。だから服を身に着けている間、何度も悲鳴をあげそうになった。今にも絵から飛び出した人魚に殴り殺されそうな気がした。彼女は合鍵をベッドに放り、部屋を出て行った。そしてもう二度と彼の部屋には行かなかった。

 
 僕はいつも妻と眠るベッドに座っていた。サイドテーブルには冷めかけたコーヒーがあった。MIKIMOTOの時計は二十三時五十五分を差していた。
 僕は僕自身がこの部屋に存在していることを確かめるように、それらを一通り眺めた。
「どう?」と女が言った。
「それが僕のためだけの物語」
「あなたのために温めておいた話って言っただけだけどね、私は」
「もしそれが本当にあった話だったとしたら」
「ねえ、これは本当にあった話なの」と女は僕の言葉を強く遮った。
「そうだったね」
 僕がそう言ってしまうと、そこには沈黙が出来上がった。女が電話の前からいなくなったような完璧な沈黙だった。ずっと、僕のなかでなにかがひっかかっていた。彼女の話が僕の記憶に、声にならない声で呼びかけていた。僕は木製の椅子に座った人魚の絵をどこかで見たことがあった。僕の人生のどこかで。僕はそのことについて、彼女に何かを話そうとした。だけどその話を切り出すための最初の言葉が見つからない。
「ところで話は戻るけど、私が誰かわかった?」
「いや」

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