小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

「ありがと」女はそこで咳払いをした。電話の向こうで換気扇が回る音がした。カチリという音と、女が深々と息を吸う音が続いて聞こえた。煙草、と僕は思った。
「画家を目指してる人だったの。アトリエみたいなとこに住んでてて。だけどね、どういう画家を目指してるとか、どういう絵が好きだとか、そういうことはよく知らないの。つまりね、彼はアレがとても上手かったわけ。基本的にはそれが目的で部屋に通ってたの。私は他に恋人もいなかったから。ねえ、悪い事じゃないでしょ?」
「そうだね」
 女はそこでゆっくりと煙草の煙を吐き出した。
「でもね、彼もそういうことを目的に私と会ってたんだと思うんだ。その人、私の中身にはまるで関心がないみたいで、私の容貌ばかり褒めるのね。顔とか、あと足が好きだったみたい。この世のものとは思えない美しい足、なんだって。もちろん、彼の言葉を借りればってことね」
「わかってるよ」
「それともヒントになっちゃうかな。美しい足を持つ女ってところが」
「残念だけど、足がキレイでミニスカートが似合う女の子の友達がけっこういるんだ」
「それは素晴らしいことね。だけど間違えないで。この世のものとは思えない美しい足、よ」
「わかった。気をつけるよ。それで?」
「それで、その人の部屋に通ってたの。結果から言うと半年くらい」
 女の話は続いた。

 
 彼女は仕事が終わると真っすぐ彼の部屋に向かった。そこにはアトリエ特有の絵の具の匂いがあった。キャンバスがあり、描きかけの絵があり、完成された絵があった。そして少し硬めの大きなベッドがあった。二人はそこで何度も交じり合った。事が終わると、彼女は必ず家に帰った。実家だったので、おおっぴらな外泊を避けたかったこともある。しかし彼女が家に帰る大方の理由は、彼女自身が彼をそれほど好きではない点にあった。彼女が求めているのはテクニカルで濃厚な情事だけで、その後ベッドで語られる絵の話に、彼女はさほど興味がもてなかった。
 その日も、彼女はいつも通り彼の部屋に向かった。しかし珍しく彼は部屋にいなかった。インターホンを鳴らしても、彼は応答をしなかった。彼女は彼に渡されていた合鍵を初めて使って部屋に入った。部屋は主人が不在のせいか、薄暗く寂しげだった。街灯の明かりが窓から差し込んで、部屋を寂寥の色に染めていた。

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