小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

「それはそうだけど。だけどそれは当然のことなんじゃない?すべての人に共感してもらえる話なんて書けるわけがない」
「ふむ」
 女はそう言って黙り込んだ。何かを考えているようだった。外から車の走る音が聞こえた。それが彼女の思考する音のように僕の耳に届いた。
「たとえばね、誰か一人の人のためだけに書くの」と女は話し始めた。「たった一人のためだけに書いて、その人だけに観てもらうの。その人のためだけに書かれた物語。それって理想の物語だと思わない?」
 僕はたった一人の客が劇場の客席にいるところを想像した。舞台上では何人もの役者が、たった一人の客のために役を演じていた。僕の感覚からすれば、それは異様な光景だった。
「元が取れない」
「お金のこと?当然その人から百万円くらいもらうんだよ」
「百万円ね」
「だけどその人にはそのくらいの価値があるお話だと思わない?」
 僕が僕だけのために書かれた話を観に行ったとする。受付で僕は銀行で下ろしたばかりの百万円を支払う。やはりそれは有り得ない話だった。
「どうだろ」
「じゃあ、ひとつお話をしてあげようか」どこか陽気な声で女が言った。
「話?」
「いつかあなたと話す機会があったらと思って温めていた話」
「僕のためだけの話?」
「どうかな。なんにせよ、ネタにはなるんじゃないかな。たとえば次に書く話の」女はそこで言葉を区切った。そして僕の脳に刻み付けるように言った。「だけど注意して。これは本当にあった話なの。あなたの小さな頭の中で考えたようなヤツじゃなくて」
「本当にあった話」
 僕はしばらく黙った。今日が終わるまでにはあと二十分ほど時間があった。コーヒーはカップに半分以上残っている。
「いいよ、聞かせて」と僕は言った。
「私がね、前に付き合ってた人の話なの。三年くらい前。こういう出だしだけど、構わない?」
「構わないよ」

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