小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

「ならよかった。じゃあ間違いなく私はあなたに電話を掛けてるのね」
 僕はそれには答えず、沸いたお湯をカップに注ぎ、小さなスプーンで掻き回した。
 睡眠薬を飲むようになった頃から、夫婦の関係は上手くいかなくなった。僕らの会話は極端に少なくなり、お互いの考えていることがよくわからなくなった。妻は外泊をするようになり、その回数は月を追うごとに増えていった。僕はその理由について言及しなかった。
「幸せそうだった?」
「なにが?」
「結婚指輪をして、本を読んでいる僕は」
「気になるの?」
「なんとなくね」
「私のことを思い出したら、教えてあげる」
 僕はコーヒーを啜りながら寝室に戻った。誰もいない寝室を見て、今日も妻が外泊している事実を思い出した。化粧台の上には結婚式の写真が飾ってあった。僕らは記憶のなかで、とても仲のいい夫婦だった。
「感想を聞かせてよ」
 僕はまともな話がしたくなった。それが名前を思い出せない相手であっても一向に構わなかった。
「感想?」
「舞台の」
「ああ。そうね。まあまあ、だったかな」
「まあまあ?」
 僕はサイドテーブルにコーヒーの入ったカップを置いた。
「本を書くのってなかなか大変なことなんだよ。まあまあ、なんて言われると、…なんていうかあまりにも報われない言葉だね、それ」
「私は本を書く大変さなんて知らないもの」
「それはそうだけど」
「つまりあれってね、あなたの内面の世界について語られたモノでしょ?私はあなたのことを知ってるから興味も持てるし感心もするけれど。あなたのことなんて全然知らない、しかも幸福に日々を過ごしている人にとっては、とっても暗い気分になるお話じゃないかなって思うわけ」
 彼女の言う事には一理あった。だけど反論しないわけにもいかない。

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