小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

「そう、あなたと同じように。じゃあ、誰かわかった?」
 僕は壁に寄りかかり、天井を見上げた。
 Yは去年の春先に失踪した。失踪する直前、彼女は一本の電話を掛けた。その相手が僕だった。僕はその電話を取らなかった。とても忙しかったのだ。
「まさか君がY?」
「それって冗談としては最低ね」
 僕はYが失踪してから、眠る前に睡眠薬を飲むようになった。そうしなければ眠りは訪れなかった。もしもあの電話を取っていたら、Yは何処にもいかなかったのかもしれない。
 とにかく、Yと僕のことを知っているのなら、女とは高校の頃に出会っている可能性が高かった。だけど当時の僕は他校の知り合いも多く、その交友関係をすべて思い出すことは難しかった。
「どうして電話を掛けてきたの?」
「今日見かけたから、あなたを」
「そのときに話しかけてくれればよかったのに」
「本を読んでたから。邪魔されるのすごく嫌がるでしょ?」
 確かに僕は、すごく嫌がる。けれどそのことを知っているのはとても親しい人に限られていた。家族、それから恋人だった人。忘れっぽい僕であっても、さすがに昔付き合った人の声を忘れるとは思えなかった。そうは思うものの、では今、全員の声を思い出せるかと言われれば、その自信はあまりなかった。
「早く私の記憶を取り戻してよ」と女はふざけた調子で言った。
「今、努力してるよ」
 僕はベッドを降り、台所でお湯を沸かし始めた。
「何してるの?」
「コーヒーを飲もうと思って」
 僕はインスタントコーヒーの粉をカップに入れた。カップはウェッジウッドで、時計と同じように結婚祝いで贈られた物だ。
「そう言えば今日見かけたとき結婚指輪してたけど、あれは何の冗談?」
「冗談でもなんでもないよ。もう五年も前に結婚してるから」
「私の記憶のあなたは、結婚なんて出来る人じゃなかったはずだけど」
「僕の知ってる僕も結婚なんて出来る人間じゃなかったよ、確か」

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