小説

『記憶の女』永妻優一(『人魚姫』)

「まあいいけど」と女は軽くため息をついた。「仕方ないことだよね。生きている以上、誰もが何かを忘れていくんだよ。それが自分にとって忘れられないことだと、どんなに自分が信じていたとしても。それに」
 そこで電話は切れた。そこで電話が終わることが、はじめから決まっていたような切れ方だった。
 僕は彼女のコール音をしばらく待った。だけど電話は鳴らなかった。しばらくして掛け直しても、それは何処にもつながらなかった。「この電話番号は現在使われておりません」という冷たいアナウンスが流れるだけだった。
 人魚の絵を思い出したのは、冷めたコーヒーをシンクに流しているときだった。それはいつだったかYが僕にくれた小説の中にあった。僕は書斎のドアを開け、本棚の前に立った。
 そのしおりには女が話したような人魚の絵が描かれていたはずだ。木製の椅子に座った、寂しそうに俯く人魚の絵が。
 僕は小説を本棚から見つけ出し、丁寧にページを捲った。
 しかし、そこに人魚はいなかった。
 しおりは記憶通りにあった。けれど記憶の女はそこにいなかった。木製の椅子だけを残し、彼女はしおりの世界から消え去っていた。恐らくは、永遠に。
 僕はしおりを持ったまま寝室へ戻り、ベッドに腰掛けた。自分がたった一人、客席にいるような気がした。
 あと二分ほどで今日が終わる。妻は今どこにいるのだろう。Yはどこに消えたのだろう。そしてあの女は誰だったのだろう。どんなに記憶の引き出しを開けても、僕はその問いにひとつも答えることが出来なかった。
 僕は時間を止めるようにしおりを握りしめたままだった。そしてただじっと、睡眠薬が効いてくるのを待つだけだった。

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