小説

『おやゆび姫 -後編ー』泉谷幸子(『おやゆび姫』)

 しかし、今は違います。家があってお母さんがいて、守るべき赤ちゃんがいます。以前は誰かに幸せにしてもらうことばかり考えていましたが、今や人を幸せにしてあげることができる存在になったのです。
 それは、モンシロチョウや野ネズミのおばさんのお蔭ばかりではないことにおやゆび姫はだんだん気づいてきました。ヒキガエルが自分をさらわなければ、今のように感謝の心をもって幸せを享受していなかったかもしれません。魚やコガネムシのせいで放浪することになったけれど、それがなければ野ネズミのおばさんにも王子様にも巡り会えなかったかもしれない。自分にかかわった生き物たちは、よきにつけ悪しきにつけ今の自分を形作っている。嫌な過去であっても、それも今の自分の一部となっていることが、ようやく理解できるようになってきたのでした。
 お母さんにチューリップの球根を渡した魔女は、ひょっとするとこれらのことまで計算していたのかもしれません。もしもおやゆび姫がずっとこの家にいたとすれば、お母さんが赤ちゃんを生むことはなかったかもしれないとさえ、おやゆび姫は思うのでした。お母さんを本当のお母さんにするために、魔女は遠回りな魔法を使ったのではないでしょうか。

 一年たった春のある日のこと。咲き始めた窓辺のチューリップの花をおやゆび姫が眺めているうち、ふと懐かしい思いにかられ、ふわりふわり飛びながらその中に入ってみました。そこはちょうどよい柔らかさで、甘く香しく、丸くなって寝てみるととても落ち着きます。おやゆび姫はついうとうとしだしました。そういえば最近疲れやすくなっています。つやのあった髪には白髪も目立ってきました。はりのあった顔には小じわがあちこちに出てきています。ここは、それらを癒してくれる繭のようです。
 寝てばかりだった赤ちゃんはハイハイして最近は立ち上がるようにまでなり、ほんの少しだけど言葉も話すようになりました。お姉さんとしてもようやく一安心といったところです。おやゆび姫は、昔のようにこうやってお昼寝をするのも悪くないと思いました。温かい春の日差しが窓辺を照らします。チューリップの花びらを通して世界が赤くほのかに輝きます。飛んでいるわけではないのに、なんだか身体が浮いているような、なんともいえない心地よさです。おやゆび姫は次第に眠りに入っていきました。たとえこのまま目覚めなくても、十分幸せだと思いながら。そして淡い光の中、野ネズミのおばさんやモンシロチョウの最期が、このようにうららかなものであったらよかった、きっとそうでありましたようにとぼんやりと祈るのでした。
 それからゆっくり時間をかけながら、おやゆび姫を取り巻く世界はどんどん暗く、そしてついには真っ暗闇になっていくのでした―――

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