小説

『シャーロットの日記』朝蔭あゆ(『浦島太郎』)

 すると、不意に柔らかな歌声が私の耳に触れた。はっとして顔を上げると、小さく微笑んだシャーロットが歌を口ずさんでいる。
 それは冬の暖炉に、春の庭に、夏の水面や秋の木陰に、私が歌った古い子守唄だった。
 ――小さなトネリコの森よ。昔遊んだ二人は、再びまみえることはない――。
 視界が歪んだ。現実に引き戻される意識のほんの片隅で、小さなシャーロットの唇が友の名を呼んだような気がした。アリス、と。
 目が覚めると、窓からは夏の日差しが降り注いでいる。ここのところ、毎朝がこんな調子だ。私は悶々とした気持ちを抱えて、階下のキッチンに降りた。ポットに水を入れて火にかけた途端、電話のベルが鳴った。
『もしもし、おはよう、シャーロット。素敵な朝ね』
 電話の向こうのママの声は、随分と久しぶりに感じる。
『明日の朝一番にそっちに行くわ。お昼からのお葬式に間に合うように』
 じゃあね、と言って電話を切ろうとしたママを、私は引き止めた。
「ママ、私の部屋から、私の写真を一枚持ってきてほしいの」
『いいけれど、何に使うの、そんなもの』
「秘密よ」
『最近のあなたには秘密が多いのねえ』
 それからほんの二、三言交わして、ママからの電話はあっという間に切れた。ポットのお湯すら沸いていない。これだけせっかちな人ならば、なるほど田舎暮らしはママの性に合わなかっただろう。一方の私はというと、存外この数日の生活が心身に馴染むようにさえ感じているのだ。
 その晩は、おばあさまの黒い日記帳を開いて眠ることのできる最後の晩だった。それはすなわち、小さなシャーロットに会えるのもこれで最後ということだ。
 私はおばあさまのベッドに腰掛けて、日記帳を膝の上に乗せる。そして、初めてその表紙をめくった時のように、ゆっくりとページを開いた。いつものように、窓を開け、カーテンを開け、月明かりに浮かび上がる文字をそっと指でなぞる。
日付は、中表紙にある最後の日付と同じ。シャーロットが二十歳の春だった。
「どこなの、シャーロット」
 その声が彼女に届くことはないのだろう。それでも私は、彼女の名前を呼ばずにはいられなかった。
夜だった。家の裏には、薪が積み上げられている。そこから西向きへ回り、玄関の前を横切って庭の奥へと進んだ。わずかに温んだ春の空気に、芽吹き始めた下草を踏みしだく。
真っ直ぐに突き進むと、果たして彼女はそこに立っていた。

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