小説

『私だけのエナメル』柿沼雅美(『赤い靴』)

 父親も私もいない時間、母親はどうしているのだろうか、ともぐりこんだベッドのなかで不意に思いながら、今夜も気持ちを落ち着かせるように、そうなんだそういうものなんだ、と羊を数えるように繰り返した。

 朝、今日は友達と出かけるから、と嘘をついて出た。
 駅ナカのカフェでスノーホワイトモカを片手に座り、ガラス越しに母親を探している。来なければいい、スーパーで買い物をして家にいたと私が帰宅したら言ってくれたらいい。しかし、私を裏切るように、母親は目の前を通った。
 私はすぐに立ち上がり、カップをレジカウンターにすみませんと言い捨てて置き、店を出た。
 母親が改札を通りすぎていく。いつのまにICカードを持っていたのだろう、と思いながら改札を通り、追う。ホームまでゆっくりと階段を降りていく母の背中は、遠いからか子供のように見えた。
 母親の手には、昔飼っていたネコ用のおでかけバッグがあった。紺色のチェック柄で筒状の形をしていて、片方の端は網目状になっていて、窒息しないようにと外からネコの表情がうかがえるようになっている。
 ホームで母親は電光掲示板をぼんやりと見ていた。ホームに電車が来ても気に留めず、15分くらいずっと次に来る電車と去っていく電車の文字が入れ替わるのを見上げていた。
 普段は銀色に緑色のラインが綺麗な車体は、おもちゃかお菓子のようにキャラクターがプリントされ、別次元に乗客を運んでいくように見える。母親は吸い込まれるようにそれに乗り、私も隣のドアから乗車した。
 母親から少し距離を取ってつり革に掴まる。母親は空いている座席に座り、ひざの上にネコ用のおでかけバッグを乗せた。時折バッグの側面をとんとん、とんとん、と小さくたたいた。自分が子供の頃に転んで泣いた時、そうやって首の後ろをとんとんとされていたのを思い出した。
 大崎を過ぎても、新宿を過ぎても、巣鴨を過ぎても、母親は電車を降りなかった。昼間の陽が窓から差し込み、目の前の人々が入れ替わり、ドアが開くたびに冷たい風が入り込んでも、母親は座っていた。
 上野で乗ってきたスーツ姿の男性が、母親の隣に座ろうとして、ぎょっとした顔で私のほうへ歩いてきた。私は顔をうつむかせて乗ってきた人々に混じるようにして母親の顔が少し見える距離まで動いた。
 目だけで母親を見ると、ネコ用バッグを不安そうな顔で覗き込んでいる。私の記憶にない母親の顔だった。お母さん、あなたは一体誰なの? と聞きたくなって顔をあげてよく見た。
 母親の覗き込んでいるネコ用バッグから、人形が見えた。バッグの中で横に寝かせられていて、バッグの網目から、髪の毛が何本もはみ出していた。
 お母さん、ねぇお母さんどうして、なんで、ねぇお母さん、と心が騒ぎ、たまらなくなって次の駅で降り、別のホームへ走り、私は家へ帰った。家に戻ってしばらく時間が経っても、自分の足元のコンクリートの色しか覚えていなかった。

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