小説

『私だけのエナメル』柿沼雅美(『赤い靴』)

 私は、人形の由実ちゃんに言ったのだ、と分かっていながら、心の中で、おやすみなさいお母さん、と返事をした。
 私が高校2年生の頃から、母親にはもう一人の私がいる。成長した私を由実と呼びながら、私と父親の目の届かないところで、成長しない由実を育てている。成長しない由実は、人形らしいかわいらしさで持ち主である母親の愛情をいっぱいに受け、2年に1回ほど新しく綺麗になっていた。
 なぜ母親がこうなったのか私には分からない。父親はそもそも気づいていないんじゃないかと思う。分からないけれど、原因として考えられることは、私が当時、地下アイドルのような活動をしていたことかもしれなかった。
 私を含めて5人でリアルタイムラブというグループで活動をしていた。恵まれたことにちゃんとした大人がスケジュールの管理やイベントをしてくれ、ライブをすれば50人くらいのファンが集まってくれていた。
 曲や振り付けに合うかわいい衣装はメンバーごとに色が違っていて、私は紫色のチュールスカートを着ていた。写真やグッズが売られ、たくさんの人と握手や写メ会やチェキ会をした。ファンの人と友達のようにしゃべり、メンバーとはテレビ収録や大きな会場でのライブをしたいと真面目に話し合うことが必至な中でも十分楽しかった。
 私は見た目が普通だったからグッズの売れ行きもイマイチだったけれど、ブログとツイッターではバラエティ向きっぽくて面白い、と言われて、落ち込むことが少なくて済んでいた。
 母親にしたら、私が知らないところへ行ってしまったような気がしたのかもしれなかった。母親の知らない友人やメンバーの存在、学校よりもレッスンの話題、いい年の男の人ばかりと握手をして近づいて笑い合ったり写メを撮ったりする行為が理解できなかったのかもしれなかった。
 ただ、私は自分のやりたいと思ったことを、好きだと思ったことを、一生懸命やってみようと決め、頑張っていただけだった。バカなことに、みんながそれを心から応援してくれているだろうと思って疑わなかった。
 母親はある日、人形と手を繋いで帰宅した。手を繋ぐというより傍目から見たら持っているだけなので、何かあって買ってきたのかと思ったけれど、その夜にさっきと同じ様子でベッドに寝かせ、人形に由実と呼んだのを聞き、私は戸惑いとショックを一瞬でくらった。思わず母親に、なにしてるのっ、と怒鳴るように言い、人形を掴みあげて床に叩き付けた。母親は、私を上目遣いで見たあと、無言で人形を抱き上げ、一緒にベッドに入ったのだった。
 それでも、翌朝はいつも通り朝ごはんを作り、早く学校に行きなさいと言い、父親には休みの日にガーデンファームで植木を見たいと話していた。私は夢を見ていたような気がしたけれど、その数日後にまた、人形を撫でて眠る母の姿を見た。
 そうなんだ、と思うことにした。何かおかしいわけでもなく、ただ、お母さんはそうなんだ、とつぶやいて気持ちを落ち着かせようとした。

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