小説

『吉住町』ノリ・ケンゾウ(『猫町』)

 焦燥する気持ちをなんとか抑えながら、前を向き歩き始めると、ぽとり、と目の前の男三人組の内の一人が、何かを落とした。免許証だった。男はそれに気づかずに歩き続けるので、それを拾うと、名前の欄に「吉住」と書いてあった。慌てて「吉住さん」と大声で叫ぶと、目の前の三人組が同時に足を止め振り返った。「あの、免許証。落としましたよ」と言って三人組の前まで寄って免許証を差し出すと。またしても三人が同時に手元の免許証を覗き込んでき、その内の一人が、「ああ、俺のか」と呟き、続けて「ありがとうございます」と礼を言った。「ええ、どういたしまして」と私は言いながら、また得意だった。私は、このように混乱した精神状況においても人の為になる行動が出来る。まるで健康的だ。と、安堵した。すると男の内の一人が、「ところでお兄さんはどうしてこの街に? 観光ですか」と聞いてくるので、「いや、私は療養中で。もう大分よくなったんですが」と答えると、「あー」と間延びした声でいい、「そうですか、お大事に」と付加えて離れた。
 腹が減った。今日は普段より歩き過ぎたのかもしれない。酒(アルコール)は辞めているから、蕎麦でも食べようと思い、近くにあった蕎麦屋に入ろうとすると、中から人が出てきて目の前数センチで蕎麦屋の女将と出くわす。私と目が合い、「蕎麦屋は店じまいですよ」と言って、女将は暖簾を片付けようとする。暖簾には「吉住屋」と書いてあった。「蕎麦が食べたいのですが」と女将に言うと、「蕎麦が食べたいなら、日が落ちる前に来てもらわないと。夜は居酒屋になるんだ。ここらはお酒が好きな人ばかりだから」と、迷惑そうに暖簾を持って店の中に戻るのであった。慌てて私は、「吉住さん」と呼びかけ、「お腹が空いたんです。何か食べてもいいですか」と聞くと、女将は「いいけど、それよりあんた名前は」と怪訝な顔で聞くので、「詩人です」と答えると女将が「嘘おっしゃい。あんたは病人だろう」と言って手招きし、「病人にはお酒が一番なんだ。早く上がりな」
 店の中は、カウンター席が十席程で、周りに二人掛けから八人掛けくらいまでの大小のテーブル席がいくつか置かれており、昼間が蕎麦屋であったことが嘘のように、というよりほとんど嘘であったと思える程に居酒屋らしい風情で、壁一面に貼り付けられた居酒屋のメニューの数々がそれを物語っていた。店はあながち繁盛しているようで、いかにも仕事帰りの風体で顔を赤らめる男たちに、若い髪の色がバラバラの男女、女に女と男の三人、男一人ビールを焼き鳥片手に、などがいて、賑やかであった。私はその中にいて、久しぶりの騒がしい人々の体温に触れ居心地の悪さを感じていたが、同時に療養生活の穏やかすぎる生活に飽き飽きしていたのもあって、胸の昂りもあった。アルコールを飲んでみようか。誰に咎められるわけでもないのだから。そう思ったが先、「はいよ、あんたは焼酎の水割りでいいね。よく聞くだろう、若い女の子が焼酎を飲んで、薬の味がする、なんて顔顰めて猫撫で声で言ってるのを。ありゃ可愛くないね、本当に。まったく、とんだいい薬だよ」と、私の心の声を聞いていたかのように女将が酒を目の前に置いた。「ええ、本当に。いい薬(ドラッグ)です」私は久しぶりに酒を飲む。

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