小説

『吉住町』ノリ・ケンゾウ(『猫町』)

 ところがある日、そのいつも日課にしている散歩を終え、家路へと歩いていると其処に普段と違う景色が拡がっていることに気づく。不穏な空気(アトモスフィア)が流れている。通常、等間隔で並んでいるはずの電柱が、二本が隣り合わせに並んでいたり、まったく離れてしまっているため、電線はたゆみ、あるいはぴんと張り、そのせいか街灯の電気は切れ切れに点いたり消えたりを繰り返す。店はどこも締まったのか、横を見ても延々とシャッターが続いているだけだった。夜の頃になれば、どこからか現れて往来を始める猫や犬の姿はまったくなく、目の前の三メートル先の視界までぼやけてくる。何かが起きると思った。早く宿に戻らなければ。薬(ドラッグ)を飲むのを忘れたのがいけなかったのか。それとも飲んだ事がいけなかったのか。視界の中に歪んだ街灯の光が、不規則にリズムを奏でながら、私の脳内に侵入してくる。頭の中でフラッシュが駆け巡り眩さにほとんど盲目状態に陥り、完全に道を失ってしまう。アスファルトを踏む足に、動物の毛が纏わりつくような感触があり悪寒がした。気づけば私の周りには誰一人として人が居らず、もしくは視界が完全に失われてしまったために人の影が捉えられず、反対に己の影がむくむくと浮かび上がってきたかと思えば、私の体はぺらぺらと電車でぶら下がる中吊り広告のように薄くなり、道路に影のようにへばりついて、身動きが取れなくなり意識を失った。
 また、トリップ(幻覚)が始まったのだ。そう思った。裏側の世界へと、私の体はスムーズに、便宜的に姿を変えて移動をするのであった。中吊り広告に書いてある文字を、女の和尚が私の体に墨に浸した筆で書き連ねていく姿を想像する。艶かしさを感じないでもない。一体、何を書かれたのだろう。下らないゴシップ記事の見出しがびっしりと、私の胸や太腿、背中にまで綴られただろうか。自分の変わり果てた姿を想像し、こんな体では、温泉に入れないのではないか、という絶望が己を包み込む。通常、刺青(タトゥ)でさえ禁止されている温泉で、まさかゴシップが許されるとは思えない。温泉街のほど近くに生活していながら、温泉に入れないのは、精神の健康上あまり良くはない気がする。耳の奥では延々と医師の声が反芻している。「食事で淡白なのはいけません。なんてね、ははは」ははは。ははは。ははは。
 何十奏にも連なる医師の笑い声に狂いそうになりながらも、意識が徐々に回復し始め、その内に医師の笑い声は収斂され、入れ替わるようにして街の人々の笑い声が聞こえてきた。いつの間にか視界も明瞭(クレア)になり、笑い声を響かせる人々の姿も捉えることができるようになった。肩を組み、酔っているのかふらつき歩く中年の男たち。手を繋ぎ淫らに寄り添う若い男女。娼家の客引き。さっきまでの閑散が嘘のように、街は繁華して忙しく動いている、が風景を見渡せば其処は普段私が散歩をしている温泉街そのものであった。建物の並びも、等間隔で設置された電柱に夜の徘徊をする犬に猫、アスファルトに刻まれた無数のタイヤ痕のような傷まで、すべてが同じで、けれど街の雰囲気だけが明らかに違うのだった。どこから湧き出たのかと思う程のまるで都心部で見るような人混みに、光る街灯や店の電飾などは、まさに絢爛そのもので、街は活気に満ち溢れている。途端に騒がしくなった温泉街に、私は胸を踊らせるというよりは、恐怖していた。療養生活にも慣れてきて、ようやく平生(ノオマル)の生活が送れると思っていた矢先、訳の分からぬ世界に紛れ込んでしまったと思った。街行く人の笑い声は鳴り止まない。皆が己を笑っているように思えてくる。

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