小説

『吉住町』ノリ・ケンゾウ(『猫町』)

 此の街に住み始めたのは、医師の勧めのためであった。「療養するなら彼処がいいでしょう、空気は澄んでいるし、野菜も魚も新鮮です。栄養は大事ですよ。ビタミン、カリウム、たんぱく質にカルシウム。バランス良く、です。食事で淡白なのはいけません。なんてね、ははは。」と医師が笑った。何が面白いのかは全く分からなかったが、「よく病は気から、なんて言いますけどね。健康の基本は食事ですよ。それは依存症でも精神病でも、虫歯だって一緒です。食事で栄養を取らないと」という医師の言葉が妙に気に入った。腑に落ちた。「先生、方向音痴も食生活で改善されますか」と聞くと、医師は満面の笑みで「もちろんです」と答えた。
 その日を境に、私はアルコールも煙草もまるっきり断った。健康的な食事と、医師に処方された薬(ドラッグ)だけを摂る生活になった。世界が少しだけ変わった。たとえば今日、朝目が醒めて何も世界が変わっていないことが、何よりの証拠だった。
 街の様子も、普段通りであればあるほど安心した。療養生活では、散歩をすることが日課だった。これも医師から勧められた療法の一つであった。私の住む宿の近くには温泉があった。医師が言っていたような、魚や野菜を採るための港や畑は近くにはまったくなかったが、それが医師を疑う理由にはならなかった。あくまで私自身の中で、医師の言葉が腑に落ちたことだけが重要であった。温泉があるからには、温泉街などと言われる商店街があって、其処を歩いて人々の往来を眺めたり食物を買うのが私にとっての散歩であった。商店街は一本道であったから、方向感覚に弱い私でも、帰るときには迷うことなく家路に着く事ができた。従来、街に出る度に指針を失い、トリップ(幻覚)に出ていた私には物足らなさも僅かにあったが、健康でいることの方が大事だと思った。
 道すがら声を掛けられることも何度かあった。だいたいは其処で商いをする中年の女に「兄ちゃん、ちょっとおいで」と言われ、食べ物などを味見していくように誘われるばかりだったが、それでも私は嬉しかった。以前の健康でないときは、誰も私に話しかけようとしてこなかったからだ。不健康な雰囲気に、好んで関わろうとする者がいなかったのだろう。そのように女に差し出される饅頭や、類いの甘味を食べ、これは健康的な食事なのだろうか、と首を傾げることもあったが、女に酒の味見を勧められたときにはきっぱりと「申し訳ないですが、アルコールは飲みませんので」と断った。女は「まあ、それは健康的だこと」と感嘆の声で言うので、それもまた得意だった。療養が上手くいっていると思った。

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