小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

 飴玉代わりに過ぎない賛辞と分かっていても、吾輩は身体が熱くなり嗚咽を漏らした。地道な努力を認められた気がしたのだ。
「だが時間の無駄だ。今の三分の一に無駄を減らしなさい。これはあんたのために言っているんだ」駄々を捏ねる子どもを諭すように男は言った。
「……分かった。とりあえず言われる通りにやってみよう」吾輩は承諾した。
「正しい選択だ。この通りやれば時間が節約できる。多少収入が減るかもしれないが、人間余計なお金を持つと何かに使ってしまう。そのすべてが無駄だからな」柔らかな口調とは裏腹に帽子の奥の眼光は鋭いままだった。
「はあ、えらいことになってしまったな……」力なくぼやいても、男は全く意に介さないようだった。
「一日あたり八時間の節約。八十歳までで、八時間×三百六十五日×二十五年=七万三千時間。すなわち二億六千二百八十万秒を節約することができる。もちろん一秒一円のレートで全時間を買い取ることも可能だ。もし全部売ればあんたはたちまち億万長者になれるぞ」男は電卓を冷徹に叩いて数字をはじき出し、鮮やかなスピードで数式を紙に書き出した。
「そんなに?」桁の大きさに吾輩は息を呑んだ。
「これだけの時間と金額をあんたは得られるんだ、無駄にしてどうする」
「急に自由と言われてもあまりぱっと思いつかないが、なんだって出来そうだ」吾輩はその時バラ色の人生が思い浮かんだような気がした。そういう人生を送るというのが本当の望みだったのかと言われれば違うと思うが、その時はそれが正しいことのような気がした。
「さて本題に入ろう。時間の出し入れ、すなわち時間貯蓄をするためにはこの契約書にサインしてもらわなくてはならない。サインすれば契約成立。あんたは晴れて時間貯蓄家となる。時間の出し入れに加えて、我々が数々のサポートをさせてもらう」
「わかった」
 吾輩は書類にサインした。もともと几帳面で実直な性格のため、裏面に記載されている一万項目に及ぶ契約の詳細にも目を通してからサインしようとしたが、なにせ細かい字で書いてあるので、その場ではとても読みきれない。
「まあ、大体他の銀行や保険なんかの契約書と同じようなことが書いているんですよね?」苦し紛れに尋ねてみたが「お前がそう思うなら、そうなんだろう」と答えた。俺に聞くなということらしい。
「あんたを信頼してサインしてやろう。うん、あんたはいい人そうだからな」吾輩は最後の強がりを言って契約書にサインした。愚かな吾輩は「いい人そう」と言った時、男は黙ってまるで笑いをこらえているように俯いて肩を揺らし、判を押している吾輩を笑顔の奥の背筋の凍るような冷たい瞳で見つめていたことにも気がつかなかった。
「これにて契約成立だ」男は満足げに判の押された契約書のサインを確認しながら言った。「これからあんたの余った時間は我々が預かることになる。しっかり頼むよ。よろしく」というので吾輩も「よろしく」と答えた。退屈な人生に僅かな希望が見えた気がした。

1 2 3 4 5 6 7 8 9