小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

「無駄だな」
「え?」
「最大で八時間にしろ。時間がなくなる。このちっぽけな店でパンを焼き続けるだけでいいなら続けるがいい。私は帰らせてもらう」
 男はイライラしてこれまでより一層早口でまくしたてた。とてもひどい過ちを犯した人を詰問するように。
「……」
 吾輩は返す言葉もなく押し黙った。
「このままでよいというのなら、どうぞ続けるがいい」男はメモをクシャクシャとまるめてゴミ箱にほうり投げた。そして荷物をまとめて立ち去ろうとした。
「待ってくれ」吾輩は慌てて引きとめた。「言うとおりにする」
 額から冷や汗がだらだらと流れ落ちた。汗っかきなのだ。二人は黙り込み、しばし静寂が続いた後、男は再び座り直して言った。
「いいだろう。どうやって時間を使えば有意義か、私が指示する。それに従え。いいな?」相変わらず冷たく抑揚のない声で、おまけにさっきまでより早口で威圧的にまくしたてるように言い放った。
「分かった」もう頷くしかなかった。
「まず仕事の時間を八時間にしろ。なあに簡単なことだ。客の要望にこたえて焼くつもりもなかったパンを焼いたり、新しいパンを考えるために試行錯誤をしたり、わざわざ休日に熱心にパンのことを研究する必要はもうない。あんたの仕事はパンを作って売ることだ。それ以外のことはしなくていい。配達にも行かなくていいし、御用聞きのようなこともしなくていい。仕事の合間に近所の人と話をする必要もない。時間の浪費になっている」
「よく知っているな」驚く吾輩に目もくれず、輩は冷たく、早口で続けた。都合の悪いことを詮索されたくはないもんだから、その隙を与えないようにしているのだろう。ただ吾輩の疑念を拭っておく必要があると感じたのか、男は「商売柄、これから合う人間について事前の下調べぐらいする。当然のことだ」とだけ愚問に呆れるように言い放った。
「あの時間だって私には大切なんだ。話をしている間に新たなパンのアイデアが生まれることだってあるし」
「ナンセンスだ。無駄でしかない」聴く耳を持ず遮って言った。「これからはそういう無駄なことは一切やめろ。パンの種類も減らせ」
 マシンガンのように放たれる男の言葉はいちいち吾輩にボディブローのように効き、何も言えなくなってうなだれる吾輩を慰めるように男は優しげな口調で言った。
「一人でこれだけのパンを焼いているなんて大したものだ。その点に関しては素直に感服する。どれもあんたの勤勉な性格とパンへの情熱が作り上げたものなのだろう」

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