小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

「みろよ」男は立ち上がり店の入り口の扉を開けた。
「これは……、一体どうなっているんだ!?」驚くのも無理はない。通りを走る車や歩行者、空を飛ぶ鳥までもが静止していた。
「今動いているのは我々だけだ。どうだ? この世界の王になったような気分は」誇らしげに言う輩の方には目もくれず、我輩はまだ信じられず辺りを見回した。やはり止まっている。通りに出てみると、いつものみなれた光景はそのままに世界はすっかり静止していた。何もかもが静止するというのは一体どういう原理なのだろう。皆目見当もつかない。
「信じるかどうかは自由だ。一つ言えることは目に見えるものだけが真実ということだ」吾輩の逡巡を見切ったように男はそう言ってタバコに火をつけ、他人事のように言い放った。「時間を貯蓄しておけばいつでもこんな風に好きな時に時間を使える。時間が足りないと諦めていたこともできる。さぞ有意義な人生になるだろうさ」
「こんなことが起こるなんて……。あんたの他にもこのことを知っている人がいるのか?」
「おおよそ、成功者と言われるような人はこの秘密を知っている。うまく使いこなして、人生を有意義なものにしている。知っている人が得をする。それがこの世のルール。実に不公平だ。それでも知ることができたあんたは幸運といえるだろう。そう、あんたは選ばれたんだ」
「選ばれた、か」吾輩は唾を飲んだ。捉えきれないなにかを強引に納得するように何度も頷いた。予め溜めておいた時間を好きな時に止めることができる。疑念は残るが、どうやら本当のことのようだ。時間貯蓄というその特権を吾輩は悪用しないだろう。ただ、自分の他にも時間貯蓄のことを知っている人がいて、既にそれを使っていい思いをしているということに危機感と激しい嫉妬のような感情を抱いた。嫉妬心を煽るのは人を操り、自分の思い通りに動かすのに有効だ。この男はそういうことに熟知していて、巧妙にターゲットを望み通りの結果へと導いている。
「そろそろ時間だ」
 男がそう言うのが早いか、止まっていた時間が動き始め、何事もなかったかのように通りを車や人々が行き交うようになった。パン職人は息を飲むようにその光景を見つめていた。その様子を男は満足そうな笑みを浮かべ眺めていた。
「一体、どうやってこんなことを?」
「それは教えられない。ただ言えることは、このままではあんたはパン作りだけで人生が終わってしまうということだ。もっと時間を有意義に使うべきだとは思わんかね?」さも素晴らしい提案をしているんだという振る舞いで男は続けた。「時間というのは無限にあるものではない。誰もが与えられた時間の中で暮らしている。人は予め決められた時間の中でしか生きることはできない。まるで檻にでも閉じ込められているかのようだ。ところが我々はその檻から抜け出すことができる方法を見つけ出した。さっき見せたようにね。鍵となるのが時間貯蓄というわけだ。時間を倹約して余剰な時間を作り出し、それを貯めておき、必要な時に使う。それが我々のプランだ」怪しく光る目で吾輩を見つめて続けた。もう一押しという手応えを感じているようだ。

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