小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

「焼きたての、あるかい?」と一人の老紳士が吾輩に尋ねてきた。パンを買いに来た客らしい。聞かれても答えようがないので黙っていると老紳士は訝しげにしながら立ち去っていってしまった。それをみて吾輩は勘違いに感づいた。吾輩が焼かねばならないのだ。パン屋の主人とはここでは他でもない吾輩のことなのだ。訳も分からず引き継ぐことになってしまったが不思議と焦りはなかった。パン作りの工程が頭に浮かぶのだ。次のパンをどうやって作るのか、その手順が浮かんでくる。試しに作ってみるとうまく焼けた。もちもちでなんとも言えぬ食感のパンが焼きあがった。
 そんな調子で店に並ぶ一揃いのパンを焼き上げ店に並べた後、吾輩は珈琲を片手に店の奥から窓の外の灰色の空に浮かぶ雲を眺めていた。全く不思議なこともあるもんだ。まさかコックコートを着てパンを焼くはめになるなんて誰が想像できただろう。
 順風満帆な日々を数日過ごすうちに、厭な曇天が大気を覆いはじめ、空が重苦しい色合いの雲に埋め尽くされてきた。ベタつくような空気と空を覆い尽くすような黒い雲が不安を掻き立てた。全てがなんとなく噛み合わない。人生そんな日もあると思いつつ気が滅入りそうだった。何か途方もない厄介ごとが転がり込んでくる気さえした。
「早めに店じまいするか」誰に言うでもなく呟いた吾輩の声は曇天の中に消え、黒い雲が速度を上げながら空を進んでいるのを見ているうちに、ふと良くない考えがよぎった。「こんな暮らしもうやめてしまいたいな。いつまでもパンを焼くだけの人生だ」惨めな気持ちが溢れて、自分が世界中で一番不幸だとでも言わんばかりの危うい感情に飲み込まれてしまった。そういう瞬間はきっと誰にだって訪れる。
「やあ」吾輩の前に妙な輩が現れたのはそんな時だった。どんなに人生が順調でも、幸せの最中にいても、夢から覚めるようにそれが退屈だと思ってしまうこともある。何かを不満に思ってしまい決して満たされることがない。どこまでも貪欲で、だからこそ人は進歩できるのであるのだろう。人とはつくづく贅沢な生き物である。男はそういう瞬間が訪れる瞬間を狙い澄ましたかのようにやってきた。一見、礼儀正しく、親切な紳士に見えた。高そうなスーツで身を固め、人の良さそうな困り顔を浮かべ我輩を見た。身に纏っているスーツは全てがハイブランドの本物なんだろう。けど、なぜだか白々しく全てが偽物のように見える男だった。
「いらっしゃい」一応客なのだからと我慢し吾輩は不機嫌に答えた。
「あんたは貯蓄というものを知っているか?」
 鞄から封筒を取り出しながらぶっきらぼうに輩は尋ねた。
「いや」突然のことに動揺し距離感を測りかねそう答えるのがやっとだった。貯蓄ぐらい知っているが突然なんなのだ。いやと答えたのは知らないという意味ではなく、拒絶の意思を示してのことだ。
「では説明してやろう」輩は承諾を得たといわんばかりに張り切り、鞄からグラフやら表やらが沢山載っているパンフレットを取り出した。そしてもう一枚、貯蓄契約書と書かれた契約書も最後にそっと添えた。裏面に何やらとても細かい注意事項が数万項目にわたり記載されている。そして表の一番下に「契約に同意し承諾いたします」という一文とともに氏名の記入欄と押印のスペースが記されていた。これにサインさせるのが狙いらしい。胡散臭い押し売りだ。どの書類の右下にも、時計をモチーフにしたような一風変わった紋章が刻まれていた。

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