小説

『第十一夜』たぼく(『夢十夜』夏目漱石)

ツギクルバナー

 こんな夢を見た。奇妙なおよそ十の夢を見た後で吾輩は目を覚まし、あれらは全て夢だったと悟ったがゆえに現実のものではないのであるから、なんら心配はないと自身に言い聞かせ平静を取り戻したのち、冷や汗で湿った寝巻を着替えたのち吾輩は厠へと向かった。厠から戻ると再び睡魔が襲ってきた。人間とは貪欲な生き物である。どれだけ満腹になろうとも半日もすればまた腹が空くし、許されるのならばどれだけでも眠る。近頃は人間の貪欲さに辟易し、つくづく欲というものには限りがないものであるなどと人間の性分に感嘆の念を抱いていた。万年床に横になると、また妙な夢を見るのではないだろうなと訝りながらも眠気には抗いきれず瞼を閉じた。このところの奇異な夢には一体どんな意味があるのだろう。可笑しな夢はどれも寝覚めがよいものであるとは言い難い。吾輩は夢を見ることにめっきり厭気が差していたのでテレビジョンのチャンネルを変えることができるように、夢も選ぶことができればいいのになどと、子供染みたことを考えてしまった。そんなものが発明されるのはもっと先のことだろう。少なくともこの明治の世などではないはずだ。吾輩は幾つまで生きるのだろう。いつか死ぬとしてそれはどんな理由なのだろうか、そもそも死とは何か、人はなぜ死ななければならないのか、あの世は実在するのかなどと吾輩はいつものように妄想の翼を死生観へと羽ばたかせている間に眠りへと堕ちた十一番目の夜、こんな夢をみた。
 なぜだか吾輩は小さなパン屋を営んでいた。本郷のステイション前に思えるが、少し違う実際はどこだか分からないその場所で、瀟洒な店構えをしたそのパン屋の主人として吾輩は働いていた。店内のインテリアはイギリスから輸入した調度品で揃えられていた。もしかしたらここの吾輩はイギリスへパンの修行に行っていたのかも知れない。しかしパンの修行というならばイギリスよりもフランスへでも行った方がより本格的に学べるのではないだろうか。その辺のズレが吾輩らしいといえばらしいともいえると妙に納得した。
 店の名は「三日月」。クロワッサンが看板メニューのようで、他のパンは二列ずつなのにクロワッサンだけは四列並んでいた。それなら店の名も「クロワッサン」とすればいいのにそうはせず、「三日月」などと名乗っているところに吾輩は、ああこの店の主人は紛れもなく吾輩なのだなどと訳の分からぬ親しみと確信を抱いた。定休日はなく、平日は会社勤めの人、休日は観光やレジャーに行く人で賑わっており常に客足が絶えない様子で、朝にはバゲット、昼にはサンドイッチ、夕方にはおやつ代わりの菓子パンや明日の朝ご飯にするための惣菜パン等が売れ筋の街の人たちに愛されたパン屋であるようだ。店先にはパンの焼きあがり時間を記すためのボードがあり、それに記された時刻にあわせてパンを買いに来る客も多く、電話で取り置きを予約までして買いに来る常連も少なくなかった。このまま続けていれば、長者番付に載るような大金持ちにはなれなくとも、それなりに繁盛したパン屋を一生続けていくことはできそうで、いやはいや吾輩にこんな商才があろうとはなどと意外な才能の発見に明後日の感心をした。自分のことはわからないものである。そもそも自分の顔さえも鏡を通してしか見たことがない。実際には見ることもできない自分というものこそがこの世で一番得体の知れないものなのかもしれない。ともかくこの夢の中で吾輩は実に上手くやっているではないか。目覚めたらすぐに吾輩もこれを真似た店でも開業すれば安泰かもしれないなどと夢とうつつの間で考えた。

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