小説

『かみかくし』薮竹小径(『草迷宮』)

ツギクルバナー

 小池苑という行きつけの喫茶店に入ると珍しい程に沢山の人がいた。ちょうどその日は中秋の名月で、なにかイベントでもやっているのかもしれないと気にせず、いつもの席に座った。ざわざわと騒がしかった。辺りを見渡すとこの狭い室内に三十人はいるかのように思われる。すると当然その倍の目玉があるわけで、そのことに思い当たりひどくぞっとした。いつまで経っても注文を聞きに来る気配はなかった。いつも珈琲カップを磨いている場所に店主の姿はない。急にそわそわと落ち着かない気がしてきた。尻が妙にむずむずとした。六十幾つの目玉がすべて舐めるようにこちらをじろっと見ている気がする。なんとかメニューを見てやり過ごそうとしていた。恐怖で顔が青白くなるようであったが、どうしてか反対に火照っていった。
 ふいにテーブルに影が落ち、声も出せずに驚いていると、
「こんばんは、どうされました」と店主の柔和な声が聞こえて来た。
「どうもしませんよ。何かあるのですか」
「どうしてですか」
「こんなにも人が多いのは珍しいでしょう」
「それは随分と失礼ですな」
「この店にそぐわない気がするんですよ」
「どうやらこれから百物語をやるそうですよ」
「この店で」
「いえ。これから移動するらしくて。その通り道にこの店があるらしく、この様ですよ」
「随分と季節はずれな気がしますね」
「あなたもここにいるとその一員だと思われますよ。どうも皆が皆、面識のない集まりらしい」
「それは困ったもんですね。だが少し面白そうだ」
 店主の前では少し強がって見たが、店主がいなくなると心細い。窓の外に目を移すとさすが名月と呼ばれるだけあると思う。すると独りの男が、喫茶店を出て行くのが見えた。男はにたにたと笑みを浮かべている。真っ暗闇のなか、喫茶店から漏れる光と名月に照らされた男は、こちらを向いてにやりと笑ったように思われた。頭から冷や水を浴びたように感じた。そうして背筋に一本、汗が流れた。
 店内は相変わらずざわざわと騒がしいが、何も進展がない。誰もが何かを始まるのを待っているように感じられた。しかしその何かは今のところ起きそうもなかった。
「この後はどうするんですかね」と聞かれ店主だと思い顔を上げると、知らない男であった。「どうも落ち着きませんね」と男は続けた。
「さあ、わかりませんね」

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