小説

『桜の樹の隣には』双浦葦(『桜の樹の下には』)

 娘を埋めていると、うなじに冷たいものが触れた。つめたいものは背中のほうへながれてゆく。その液体は粘ついていた。べたべたした感触を指で確かめているうちにも、液体は雨のように降ってくる。いったいどこからくるのかと思い、見上げてみると、まるで待ち構えていたかのように、私の両目を液体がとらえた。途端、景色が変わった。私が生まれるよりずっと前から、庭に壮大な存在感を持って立っていた桜の樹が、再びそこに鎮座していた。季節は冬のはずなのに、花も咲いていた。赤みの強い、梅かと見まごうような色をした桜が、生き生きと空を占領していた。液体は、その枝から滴っていたのだ。
 サクラはバラ科で、枝に傷をつけても乳液は出ない。確保されたとき、男のうなじにも目にも、異質な液体は認められなかった。ゆえに、それは男の妄想だ。
 ――ほんとうに、そうなのか?
 男の妻が亡くなる原因となったものは当時の捜査で判明していた。そうしてそれが今、男を殺人事件の容疑者として扱う理由のひとつとなっている。妻が転落した縁側には、娘がいた。縁側のふちへと這ってゆく幼い娘を、慌てて止めようとしたことによる不幸な事故だったのだ。つまり妻に死を運んだのは娘であり、それゆえに男は娘を憎み続けてきたのではないか。そう警察は考えているのだ。たしかに筋は通っている。
 ――しかし、ほんとうに。ほんとうに、そうか?
 誰も疑いを持たない、整合性のある動機だけが、信じていいことなのか。
「その傷」
 質問をする声の高さを聞きとって、指をキーボードから離した。どうやら取り調べは一段落したようだ。俯きながらもスムーズに答えていた男は、途中で言葉を止めた刑事を訝しく思ったのか、顔を上げた。藍色の混ざった深い瞳が、戸惑うように揺れている。
「まだ、減りませんか」
 先輩がようやく続きを言うと、男は緊張をわずかにゆるめた。そうして、照れたように口元をほころばせる。思いがけない魅力的な表情に、はっとした。この男は本当に罪など犯してはいないのではないか。そんな馬鹿げたことすら考えさせられるほどに清らかな、うつくしい表情だった。実際は、殺人はともかくも死体遺棄は確定しているのだから、無実のはずがないのに。
 はい、どうにも慣れなくて。恥じらい気味に答える男をとらえた瞳が、瞬間接着剤を流し込まれたかのように動かなくなった。

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