小説

『僕は普通のサラリーマン』二月魚帆(『シンデレラ』)

 僅かに心臓の音が早まる。胸にこごり雲が過る。うさんくさい男と、自分の喉が鳴る音が妙に大きく聞こえる。
「……ちょっと、きついみたいです」
 僕が申し出ると、うさんくさい男の眉や目は萎れるように下がる。胃のあたりに手を添えているところを見ると、なかなかサイズの合う人が居なくてストレスが溜まっているのかもしれない。もう九月で空も高くなってきたとはいえ、まだ暑さが残る。良いスーツの下に汗を滴らせて、歩いて。こんな仕事、さっさと該当する人物が出てくればあっという間に終わるんだろうに。ほんの少しだけ、このイケメンに気の毒な気持も湧いてくる。ほんの少しだけだが。
「もうちょっとつま先、入りませんか? こうぐいっと」
「そう、ですね……無理ですね」
 男は、がっかりした様子でガラスの靴を丁寧にまた包む。また別の独身男性宅を回らなければならないからだろう。夜までかかったら、残業代はつくのだろうか。
「かしこまりました。お時間いただきありがとうございました。あ、これ国から正当な遅刻を証明する書類です。会社に提出してください」
 ビジネスバッグから葉書サイズの紙を取り出して僕に手渡す。不都合のないようにって、ただコピー用紙に印刷した紙切れ一枚かよ、と僕は体の力が抜ける。
 男は一礼し、そのまま俯いてぼた、ぼたぼたと全身地面に打ち付けるような足音を立てて薄汚れたアパートのコンクリート階段を降りていった。
 僕は、葉書サイズの遅刻届と書かれた紙を二つ折りして会社に遅刻する旨の電話を掛ける。
 僕は今日も、普通の、どちらかといえば地味なサラリーマンだった。

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