小説

『僕は普通のサラリーマン』二月魚帆(『シンデレラ』)

 僕は普通の、どちらかといえば地味なサラリーマンだと思っていた。
 今日も昨日と同じ時間に起きて、トイレに行って、朝食代わりのコーヒーを嗜み。使っても使ってもなかなか無くならないワックスで髪を撫で付け、砂埃で少し朧な靴に「まあいいか」と足を突っ込んだ。右足から。
 ドアを開き、部屋から外への一歩を踏み出そうとするとスーツ姿の男が立っていた。生地から滲み出る輝きのあるスーツはひと目で良い生地だとわかる。これは僕のスーツに見られる、摩擦でつんつるてんになってしょうがなく出ている照りではない。
「ああ、今インターホンを押そうとしておりました」
 一重の目の涼しげな顔の、どこかうさんくさいイケメンだ。
「はあ」
 おそらく僕にとってはどうでもいい勧誘だろう。足の位置がなんとなく定まらない革靴のつま先を軽く地面に叩きつける。
「そうですか。勧誘なら結構です。僕これから出勤なので」
 と立ち去ろうとする。駅まで歩いて十五分、二十分弱後には乗りたい電車がホームに滑り込むのだ。
「いいえ、だめです」
 急ぐ僕に、うさんくさいイケメンが通せんぼする。なまじ身長が僕よりあるものだから、腕を目の前で上下して阻まれるとなかなか通り抜けにくい。
「……なんでですか」
「この靴をお履きください」
 イケメンは僕の前で、なにやら包を解くとそこにはまさにガラスの靴。ハイヒールではなく男性物のローファーを象っている。
「なんですかこれ。……通してください、遅刻したらどうするんですか」
 僕は腕時計をちらりと見遣る。もう家を出たい時間から三分過ぎようとしている。
「大丈夫です、不都合のないように致しますので」
 男は僕の足元に靴を揃えながら言う。
意味がわからない。僕は開いた口が塞がらない。
「今、各都道府県、各町内で同じようにこの政策が進められているのはご存じですか? もしよろしければチラシを……」
男がビジネスバッグからチラシを出そうとするのを、手を振って断りながら
「……ああ」
 と僕は思い出す。最近のニュースでそんなことを言っていた。

1 2 3