小説

『T大学文学部のメロスと申します。』伊藤佑介(『走れメロス』)

 私は、落とされる。落とされる為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。面接官の奸佞邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は落とされる。若い時から名誉を守れ。さらば、ベトナム。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。走りながら思った。学生時代頑張ったことのネタができた、と。友を救うために走る、これ以上のことがあるだろうか。ズドン。
 約束の三日目の日、メロスには走り続ける体力はもう残っておらず、道端に無残な姿で倒れていた。三日三晩何も食べていない。限界だった。メロスにはいま自分がどこにいるのかさえ分からなかった。ここはもう日本なのだろうか、いやそんなことはないような気がする。では中国だろうか。それともまだベトナムなのだろうか。どこにいるかなど、どうでもよかった。もうじきメロスは死ぬ。死んでしまえばすべて無意味だ。朦朧とする意識の中で、メロスは夢を見た。

 
「待て。その人を落としてはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で面接官にむかって叫んだつもりであったが、喉がつぶれてしわがれた声がかすかに出たばかり、社員は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに不採用のメールの文面が完成され、あとはセリヌンティウスのアドレスへと送られるだけであった。メロスはそれを目撃して最後の勇、先刻、メコン川を泳いだように社員を掻きわけ、掻きわけ、
「私だ、人事!落とされるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」と、かすれた声で精いっぱいに叫びながら、ついに人事部長の両足にかじりついた。社員は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの不採用は取り消しとなった。
「セリヌンティウス。」メロスは眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちからいっぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君がもし私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
 セリヌンティウスは、すべてを察した様子でうなずき、会社のビルいっぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生まれて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」

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