小説

『約7000羽』大前粟生(『ヨリンデとヨリンゲル(グリム童話) 』)

 

 森を出たとき、思い出したんだ。彼女がいなくなってから、森を歩いていた間のことを。気がつくと僕は、森の入り口でひざまずいていて、目からは涙が流れていた。そして、痛みがあった。頭を触ると血が出ていて、口元からも血が出ていた。僕はなにげなく触れたつもりだった。でも、爪がすーっと触れると、ミミズ腫れの先端が弾けて、血がパッと、ノミを潰したときのように出た。血は顎を伝って、滴り、足元にあった名前もわからないパッとしない、けれどそこそこ大きな花に落ちていった。黄色い花だった。黄色は見る間に血に染まっていった。花弁も、葉も、茎も。引き抜いてみると、根さえ赤くなっていた。根についた土がこぼれ落ち、コンクリートについて行き場を失った瞬間、僕の歯が抜け、花弁の中央に入った。そして、またあんたの視線がやってきた。僕がこんなことを思っているのも、あんたに助けてほしいからだ。僕のことをずっと見てきたんだろ? だったら、愛着があるよね、僕に。僕が魔女から彼女を助けられるように、僕を導いてよ。

 掃除が終わるまでに、長い時間がかかった。窓から陽が入っていたら、もう少し正確な時間をいうことができたが、ここは森のなかなので陽は入らない。それほどの森なのだ。あなたがこの家を見つけようとしても、迷うだろう。この部屋には窓がないから、そもそも陽が入らない。それは鳥たちを、私たちを守るためだ。換気扇がないから、この部屋はとても鳥くさい。おしっこや鳥の体臭が混ざったにおいがする。おばあさんはそんな部屋に長時間いたわけだ。よぼよぼだから、歩くのも数センチずつで、本当に長い時間。おばあさんは嗅覚が悪いのかもしれない。それとも、顎まで届く垂れ下がった鼻のなかには鼻毛が密集していて、悪臭を軽減するフィルターになっているのかもしれない。いや、ちがったようだ。おばあさんは髪の毛につき、髪のための服のようになった羽を、櫛を使って廊下に置いてある大きなゴミ箱に落としたあと、ポケットのなかから消臭スプレーを取り出した。スプレーを、鳥たちにかからないように、部屋中に散布していく。鳥カゴはそれぞれ間隔を空けられて配置されている。カゴの網目から隣の鳥カゴにちょっかいを出せないようになっている。セミプライベートスペースが確保されている、約7000の鳥たち。それほどにこの部屋は広い。おばあさんが吹きかけているスプレーは無香料で無着色だ。おばあさんのことだから、きっとこのスプレーは人体に、いや鳥体に入っても害のないもので、それでいて除菌消臭も抜群ときている。部屋のなかに無香料の香りが満ちていく。スプレーから出た霧が、何枚ものカーテンとなって浮いていく。そこにまた、羽が漂う。湿った羽には光沢ができていて、きれいだったり汚かったりする。白鳥やクジャクの羽は、いうまでもなく、濡れてさらに美しさを増しているが、私の茶色い羽はなんともいえない。

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