小説

『約7000羽』大前粟生(『ヨリンデとヨリンゲル(グリム童話) 』)

 

 男は歩いていた。男が歩いているというよりは、足の上に男が乗っかっている。目指すところはなく、ただ、歩いているのだ。男の汗が虫の絨毯に落ちていく。木々の根が、汗を求めて根を伸ばそうとするが、先端が汗にたどりつくときにはもう、男はいなくなっている。森を迷う男の頭上では、枝や葉が光をくねらせていて、男は夜のなかにいるみたいだと錯覚する。男の靴は草を踏んでいて、足跡のくぼみを、ミミズが珍しそうに眺めている。どれくらい歩いただろうか。男は疲れ切っているが、森はそうではない。森はここにあり、男を導いていく。男は小屋を見つける。木でできた小屋で、蔓に覆われている。ちょうど、小屋を小屋とする一辺一辺の長さは、男の体分くらいだ。扉を塞ぐキヅタやジャケツイバラを男の手がむしりとっていく。蔓植物たちは死後硬直のように小屋を絡み取っているが、まだ死んでいない。男にちぎられて、湿った土に横たわるときに死ぬ。いや、そのときにはもう、本当に死んでいるとはいえない。本当に死んでいるそのときは、手に放り投げられて、宙に浮いている、その一秒にも満たない時間のなかだ。地面と接点を持ったとき、蔓はもう安心している。土が、虫が、木が、森が、糧にしてくれる。そのときを待つばかりである。扉が開かれると、ネズミやムカデの波が男の足元を通りすぎ、逃げていく。小屋には、机と椅子、申し訳程度の薪や鍬などがある。それらはもう腐っている。男の手が鍬に触れると、赤茶けた鉄が埃のように落ちる。だが、埃ではなく鉄なので、舞い散ったりはしない。ただ、崩れる。この森には昔、森番が住んでいた。どれくらい昔だっただろうか。覚えてはいるが、正確な時間はわからない。私にはわからない。森番は、男の夢に出てきた。男はそのことを覚えておらず、もう森の一部と化した小屋をざっと見て、あとにする。男は、私以外に鳥が一羽もいないことに気がつかない。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11