小説

『面影』野本健二(『鶴の恩返し』)

 女は振り向きざまに男の左の横っ面に平手打ちを浴びせた。彼女の右目から、一筋の涙が流れた。
 ピンポーン、ピンポーン
 ベルに救われた。彼女は黙って涙をぬぐい、足早に玄関に向かった。取り残された男はグリルの火を止めた。
「おう」と彼女が玄関のドアを開けると、黒いジーンズに赤いチェックのシャツを着た青年がいた。「ここ、こんなに狭かったっけ? 今度改築するなら俺、図面引くよ?」
「そう、ありがと。でも、宇宙船みたいなのは嫌よ」と彼女は必死に声を震わせまいと答えた。
「ひでえなあ。俺だってあんなの嫌いだよ。だけどああしないとコンペに通んないんだよ。建築なんて分かってない奴らが選ぶんだから、パッと見でヤバい見た目にしなきゃいけないんだって。こっちだって食ってくのに必死だよ。大体、チームでやってんだしさ」と笑った青年は、キッチンから流れる空気を吸い込んだ。「今日、秋刀魚?」
 女はうなずいた。
「ねえ、泣いてるの?」青年は聞いた。男はいつでも女が求めるタイミングに少し遅れる。
「入って」
「施設に入れても誰も責めないよ? 父さんのレストランは順調だし、貯金だってあるんだろ? もういいんじゃないか?」
 玲子は答えなかった。
「デザインの学校行ったの、そんなに後ろめたいの? 大丈夫だよ、長女なんだし。それに、今は独立して、ショップも順調なんだろ?」
「人間、笑うと泣くのよ」
 彼女は会話を終わらせたかった。青年もこれ以上続けるつもりはなかった。これから話す機会もあるし、いずれは真剣に考えなくてはならないことだということは二人とも理解していた。
 若者が女に続いて部屋に入ると、座っていた初老の男が嬉しそうに立ちあがった。
「よく来たなあ、真一郎。どうだ、最近は?」
「まあ、なんとかやってるよ。地方活性化とか言って、地方には建設予定はあるからね」
「そうか」と男は笑顔を見せてから、彼女を見た。「お茶を出さんか、玲子」
「はい」と彼女は答えた。

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